大井河の大樹と氷室

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仁徳天皇(三十六)大井河の大樹と氷室

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原文

六十二年夏五月、遠江国司表上言「有大樹、自大井河流之、停于河曲。其大十圍、本壹以末兩。」時遣倭直吾子籠、令造船而自南海運之、將來于難波津、以充御船也。是歲、額田大中彦皇子、獵于鬪鶏、時皇子自山上望之、瞻野中、有物、其形如廬。乃遣使者令視、還來之曰、窟也。因喚鬪鶏稻置大山主、問之曰「有其野中者、何窨矣。」啓之曰「氷室也。」皇子曰「其藏如何。亦奚用焉。」曰「掘土丈餘、以草蓋其上、敦敷茅荻、取氷以置其上。既經夏月而不泮。其用之、卽當熱月、漬水酒以用也。」皇子則將來其氷、獻于御所、天皇歡之。自是以後、毎當季冬、必藏氷、至于春分、始散氷也。
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現代語訳

即位62年夏5月。
遠江国司(トオツアウミノクニノミコトモチ)は申し上げました。
「大きな樹がありまして、大井河(オオイガワ)より流れて河が曲がっているところで止まっています。その大きさは十囲(トウダキ=長さの単位だが未詳)ほどあります。根本は一つで二股に分かれています」
倭直吾子籠(ヤマトノアタイアゴコ)を派遣して、(その樹で)船を作らせました。南海(ミナミノミチ)から回って難波津(ナニワノツ)に来て御船(ミフネ=天皇の船)にあてました。

この年、額田大中彦皇子(ヌカタノオオナカツヒコノミコ)は闘鶏(ツケ=大和国山辺郡都介郷=現在の奈良県山辺郡都祁村)で狩りをしました。その時に皇子は山の上から望み見て、野の中を見ると、物がありました。その形は廬(イホ=庵=小屋)のようでした。すぐに使者を派遣して、調べさせました。帰ってきて言いました。
「窟(ムロ)です」
そこで鬪鶏稻置大山主(ツケノイナキオオヤマヌシ)を呼び寄せて、問いました。
「あの野の中にあるのは何の窟(ムロ)か?」
答えて言いました。
「氷室(ヒムロ)です」
皇子は言いました。
「どうやって蔵(オサ)めるのか? また何に使うものなのか?」
答えて言いました。
「土を丈(ヒトツエ=長さの単位)余りほど掘ります。草(カヤ)をその上にふきます。ぶ厚く茅荻(チススキ=カヤと同義)を敷いて、氷を取ってその上に置きます。夏月(ナツ)になっても(氷は)消えません。どう使うかといいますと、暑い月には水や酒に入れて使います」
皇子はその氷を持って来て、御所(スメラミコト天皇が居るところ)に献上しました。天皇は喜びました。これより後、季冬(シワス=師走)になると毎年、必ず氷を蔵(オサ)めました。春分(キサラギ)になって氷を献上しました。
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解説

倭直吾子籠
倭直吾子籠は以前にも登場しています。

額田大中彦皇子が屯田と屯倉を自分の土地だと主張したときに、その屯田と屯倉は「天皇のもの」であって額田大中彦皇子のものではない、と言った人物が吾子籠です。

その吾子籠が静岡の大井川に流れて引っかかった大きな樹を加工して船を作った、というのが前半。

そして額田大中彦皇子が「氷室」を発見し、氷を献上して天皇が大喜びする、というのが後半。

この二つの出来事が即位62年に起きた。かつて屯田と屯倉の所属でもめた因縁のある二者の物語が同年に。
偶然か? それとも創作か??
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