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仁徳天皇(三)倭の屯田は山守のもの?
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是時、額田大中彦皇子、將掌倭屯田及屯倉而謂其屯田司出雲臣之祖淤宇宿禰曰「是屯田者、自本山守地、是以、今吾將治矣。爾之不可掌。」時淤宇宿禰啓于太子、太子謂之曰「汝便啓大鷦鷯尊。」於是、淤宇宿禰啓大鷦鷯尊曰「臣所任屯田者、大中彦皇子距不令治。」大鷦鷯尊、問倭直祖麻呂曰「倭屯田者、元謂山守地、是如何。」對言「臣之不知、唯臣弟吾子籠知也。」
適是時、吾子籠、遣於韓国而未還。爰大鷦鷯尊、謂淤宇曰「爾躬往於韓国、以喚吾子籠。其兼日夜而急往。」乃差淡路之海人八十爲水手。爰淤宇、往于韓国、卽率吾子籠而來之。因問倭屯田、對言「傳聞之、於纏向玉城宮御宇天皇之世、科太子大足彦尊定倭屯田也。是時勅旨、凡倭屯田者毎御宇帝皇之屯田也、其雖帝皇之子、非御宇者、不得掌矣。是謂山守地非之也。」時大鷦鷯尊、遣吾子籠於額田大中彦皇子而令知狀。大中彦皇子、更無如何焉、乃知其惡而赦之勿罪。
適是時、吾子籠、遣於韓国而未還。爰大鷦鷯尊、謂淤宇曰「爾躬往於韓国、以喚吾子籠。其兼日夜而急往。」乃差淡路之海人八十爲水手。爰淤宇、往于韓国、卽率吾子籠而來之。因問倭屯田、對言「傳聞之、於纏向玉城宮御宇天皇之世、科太子大足彦尊定倭屯田也。是時勅旨、凡倭屯田者毎御宇帝皇之屯田也、其雖帝皇之子、非御宇者、不得掌矣。是謂山守地非之也。」時大鷦鷯尊、遣吾子籠於額田大中彦皇子而令知狀。大中彦皇子、更無如何焉、乃知其惡而赦之勿罪。
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現代語訳
(応神天皇即位41年)このとき、額田大中彦皇子(ヌカタノオオナカツヒコノミコ=応神天皇皇子で大山守皇子の同母弟)は倭の屯田(ミタ=天皇の田)と屯倉(ミヤケ=天皇の直轄領)を自分の管轄にしようとして、その屯田司出雲臣(ミタノツカサイズモノオミ)の祖先の淤宇宿禰(オウノスクネ)に語って言いました。
「この屯田は元々は山守(ヤマモリ)の土地なので、ここは今、わたしが治めることにする」
その時、淤宇宿禰(オウノスクネ)は太子(ヒツギノミコ=ここでは菟道稚郎子)に言いました。太子は語って言いました。
「お前は、大鷦鷯尊(オオサザキノミコト=仁徳天皇)に言いなさい」
淤宇宿禰(オウノスクネ)は大鷦鷯尊(オオサザキノミコトに言いました。
「わたしめが任じられている屯田は大中彦皇子が邪魔して治められません」
大鷦鷯尊は倭直(ヤマトノアタイ)の祖先の麻呂(マロ)に問いました。
「倭の屯田は元々は山守(ヤマモリ)の土地というのは、どういうことか?」
麻呂は答えて言いました。
「わたしめは知りません。ただ、わたしめの弟の吾子籠(アゴコ)だけが知っております。
このときに吾子籠(アゴコ)は韓国に派遣されてまだ帰って来ていませんでした。それで大鷦鷯尊は淤宇(オウ)に語って言いました。
「お前は自ら韓国に行き、吾子籠を呼び寄せろ。昼も夜も無く、速やかに行け」
淡路の海人八十(アマヤソ)を水手(カコ=船頭)としました。淤宇(オウ)は韓国に行き、すぐに吾子籠を連れて帰りました。それで倭の屯田について問いました。
「伝え聞いたのだが、纒向玉城宮御字天皇(マキムクノタマキノミヤアメノシタシラシシスメラミコト=垂仁天皇)の世に太子の大足彦尊(オオタラシヒコノミコト=景行天皇)に命じて倭の屯田を定めたという。このときの勅旨(ノタマウオオミコト=天皇の言ったこと)で
『全ての倭の屯田は常に御宇帝皇(アメノシタシラススメラミコト)の屯田です。それが帝皇(ミカド=天皇)の子といえども、御宇(アメノシタシラス=天皇)で無ければ、管理することはできない』
と言っていました。だからこの土地を山守の土地ということはありません」
大鷦鷯尊は吾子籠を額田大中彦皇子のもとへ派遣して事情を知らせました。大中彦皇子はこれ以上どうと言うことはありませんでした。(大鷦鷯尊は)その間違いを知らせましたが、(大中彦皇子を)許して罪としませんでした。
「この屯田は元々は山守(ヤマモリ)の土地なので、ここは今、わたしが治めることにする」
その時、淤宇宿禰(オウノスクネ)は太子(ヒツギノミコ=ここでは菟道稚郎子)に言いました。太子は語って言いました。
「お前は、大鷦鷯尊(オオサザキノミコト=仁徳天皇)に言いなさい」
淤宇宿禰(オウノスクネ)は大鷦鷯尊(オオサザキノミコトに言いました。
「わたしめが任じられている屯田は大中彦皇子が邪魔して治められません」
大鷦鷯尊は倭直(ヤマトノアタイ)の祖先の麻呂(マロ)に問いました。
「倭の屯田は元々は山守(ヤマモリ)の土地というのは、どういうことか?」
麻呂は答えて言いました。
「わたしめは知りません。ただ、わたしめの弟の吾子籠(アゴコ)だけが知っております。
このときに吾子籠(アゴコ)は韓国に派遣されてまだ帰って来ていませんでした。それで大鷦鷯尊は淤宇(オウ)に語って言いました。
「お前は自ら韓国に行き、吾子籠を呼び寄せろ。昼も夜も無く、速やかに行け」
淡路の海人八十(アマヤソ)を水手(カコ=船頭)としました。淤宇(オウ)は韓国に行き、すぐに吾子籠を連れて帰りました。それで倭の屯田について問いました。
「伝え聞いたのだが、纒向玉城宮御字天皇(マキムクノタマキノミヤアメノシタシラシシスメラミコト=垂仁天皇)の世に太子の大足彦尊(オオタラシヒコノミコト=景行天皇)に命じて倭の屯田を定めたという。このときの勅旨(ノタマウオオミコト=天皇の言ったこと)で
『全ての倭の屯田は常に御宇帝皇(アメノシタシラススメラミコト)の屯田です。それが帝皇(ミカド=天皇)の子といえども、御宇(アメノシタシラス=天皇)で無ければ、管理することはできない』
と言っていました。だからこの土地を山守の土地ということはありません」
大鷦鷯尊は吾子籠を額田大中彦皇子のもとへ派遣して事情を知らせました。大中彦皇子はこれ以上どうと言うことはありませんでした。(大鷦鷯尊は)その間違いを知らせましたが、(大中彦皇子を)許して罪としませんでした。
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解説
屯田と屯倉
屯田と屯倉はどちらも直轄領という意味で、屯田は直轄の「田」。この屯田を管理するというか農作業する人が田部。屯倉は「御宅」とは違うかと推測されるが、屯倉の意味は時代によって違うので、「屯倉」と「御宅」が同じニュアンスになることもある。初期の屯倉では農地も入るため、屯田と屯倉はほぼ同じ意味になるはず。ここでは「屯田と屯倉」が描かれている以上は、違う意味だと考えるべきかと。
だからここでは屯田は「直轄の田」で屯倉は「直轄の建物」という意味。
淤宇宿禰(オウノスクネ)
記紀では見られない。が出雲国には意宇郡という地域があり、出雲風土記にも同様の名前が見られる。ただ、それらの記述と記紀のこの時代の記述では時代も違えば性質も違う。よってよく分からない。
山守
ここでの山守が何を指すのか?には二つの候補があります。一つは応神天皇の時代に定めた「山守部」です。おそらく山を管轄する部署でしょう。山守部に関する記述は他にありません。
もう一つの候補は大山守命(オオヤマモリノミコト)です。大山守命は応神天皇の子で、このページで揉めてる「額田大中彦皇子」の同母兄にあたります。
この後、額田大中彦皇子はクーデターを起こそうとするのですが、まぁその動機を上記の事情から考えると、致し方ないような気もします。
山守部と大山守命は無関係ではないでしょう。大山守命は山守部を管轄していたか、そこの関係者だった。彼は応神天皇の時代に後継者から外された。いや、外されたから山守になったのかもしれません。その弟の大中彦皇子は、同母兄の大山守命の土地を自分の管轄だと主張した。仁徳天皇が即位して、その土地が兄の政敵だった仁徳天皇のものになってしまうのが嫌だったのでしょう。それも周囲からの説得で諦めざるを得なくなった。
このあと大山守命がクーデターを起こします。
屯田と屯倉はどちらも直轄領という意味で、屯田は直轄の「田」。この屯田を管理するというか農作業する人が田部。屯倉は「御宅」とは違うかと推測されるが、屯倉の意味は時代によって違うので、「屯倉」と「御宅」が同じニュアンスになることもある。初期の屯倉では農地も入るため、屯田と屯倉はほぼ同じ意味になるはず。ここでは「屯田と屯倉」が描かれている以上は、違う意味だと考えるべきかと。
だからここでは屯田は「直轄の田」で屯倉は「直轄の建物」という意味。
淤宇宿禰(オウノスクネ)
記紀では見られない。が出雲国には意宇郡という地域があり、出雲風土記にも同様の名前が見られる。ただ、それらの記述と記紀のこの時代の記述では時代も違えば性質も違う。よってよく分からない。
山守
ここでの山守が何を指すのか?には二つの候補があります。一つは応神天皇の時代に定めた「山守部」です。おそらく山を管轄する部署でしょう。山守部に関する記述は他にありません。
もう一つの候補は大山守命(オオヤマモリノミコト)です。大山守命は応神天皇の子で、このページで揉めてる「額田大中彦皇子」の同母兄にあたります。
この後、額田大中彦皇子はクーデターを起こそうとするのですが、まぁその動機を上記の事情から考えると、致し方ないような気もします。
山守部と大山守命は無関係ではないでしょう。大山守命は山守部を管轄していたか、そこの関係者だった。彼は応神天皇の時代に後継者から外された。いや、外されたから山守になったのかもしれません。その弟の大中彦皇子は、同母兄の大山守命の土地を自分の管轄だと主張した。仁徳天皇が即位して、その土地が兄の政敵だった仁徳天皇のものになってしまうのが嫌だったのでしょう。それも周囲からの説得で諦めざるを得なくなった。
このあと大山守命がクーデターを起こします。
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仁徳天皇(日本書紀)の表紙へ
- Page1 仁徳天皇(一)出自と人間性
- Page2 仁徳天皇(二)菟道稚郎子との皇位の譲り合い
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- Page4 仁徳天皇(四)ちはや人 菟道の渡りに 棹取りに
- Page5 仁徳天皇(五)海人なれや、己が物から泣く
- Page6 仁徳天皇(六)「我が弟の皇子」からの遺体の復活
- Page7 仁徳天皇(七)高津宮は質素に
- Page8 仁徳天皇(八)木菟(=ミミズク)が産殿に飛び込む
- Page9 仁徳天皇(九)皇后と妃と子息子女
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