高津宮は質素に

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仁徳天皇(七)高津宮は質素に

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原文

元年春正月丁丑朔己卯、大鷦鷯尊卽天皇位。尊皇后曰皇太后。都難波、是謂高津宮、卽宮垣室屋弗堊色也、桷梁柱楹弗藻飾也、茅茨之蓋弗割齊也、此不以私曲之故留耕績之時者也。

現代語訳

仁徳天皇が即位した元年の春1月3日。
大鷦鷯尊(オオサザキノミコト)は天皇位につきました。(応神天皇の)皇后を皇太后としました。難波(ナニワ)に都を作りました。これを高津宮(タカツノミヤ)といいます。宮垣室屋(ミカキオオトノ)に漆喰で白塗りをしませんでした。桷(ハエキ)・梁(ウツハリ)・柱(ハシラ)・楹(ウダチ)も装飾しませんでした。茅茨(カヤ)をふくときにも、切り口を整えたりしませんでした。それもこれも、(天皇が良いところに住みたいという)私的な理由から、百姓が田畑を耕して糸を紡ぐ邪魔をするものではないと考えたからです。
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解説

立派な天皇像
天皇が質素倹約をする、ということを書くのは儒教の影響かと思われます。ただ、「儒教の影響」自体はこれ以前からあるのですね。それがこの仁徳天皇の時代で急に、質素を美徳として提示するのは、不思議です。

わたしはこの矛盾に関してこう考えています。

日本は「文化がモザイク状」になっているものだ、ってことです。日本人にとって文化をとはバラバラにして再構築して良いものです。現代でも、クリスマスがあり、寺で除夜の鐘をつき、年が開けると初詣をする。本来ごっちゃにして良いものでは無いのですよ。でも、日本人にとって「文化」とはいいとこ取りをしていいものなんです。儒教が日本に入ってきたからといって、上から下まで完全に儒教になることもないし、その儒教もモザイク状にしか影響しません。それが徐々に広がって仁徳天皇の時代に「質素=美徳」という価値観が広がった。だから、仁徳天皇の時代にこういった思想があり、その伝承ができた。よってわたしは「後世に作られた」とも言えないのではないか?と考えています。史実だと、言っているのではありませんよ。ただ、そういう価値観は実際に仁徳天皇の時代にあったんじゃないか?と思うのです。
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