百舌鳥耳原の地名説話

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仁徳天皇(三十八)百舌鳥耳原の地名説話

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原文

六十七年冬十月庚辰朔甲申、幸河內石津原、以定陵地。丁酉、始築陵。是日有鹿、忽起野中、走之入役民之中而仆死。時異其忽死、以探其痍、卽百舌鳥、自耳出之飛去。因視耳中、悉咋割剥。故號其處、曰百舌鳥耳原者、其是之緣也。

現代語訳

即位67年冬10月5日。河内の石津原(イシツノハラ=和泉国大島郡石津郷=現在の大阪府堺市石津町)に天皇は行き、陵地(ミサザキノトコロ=墓所)を定めました。18日に陵(ミサザキ=墓)を築き始めました。この日に鹿が、たちまち野の中から現れて、走って、役民(エタミ=墓作りの仕事をしている民)の中に入って倒れて死んでしまいました。その死んでしまったことを不思議に思って、その鹿の傷を調べてみました。百舌鳥(モズ)が耳から飛び出して飛んで行きました。耳の中を見ると、ことごとく食い割って肉が剥げていました。それでその場所を名付けて、百舌鳥耳原(モズノミミハラ)といいます。これはその所以です。
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解説

恐るべし百舌鳥
百舌鳥(モズ)が鹿の耳から飛び出して、中を見ると鹿の中身が食い散らかされていた。怖いぞ。鹿というと仁徳天皇には関わりの多い動物です。
仁徳天皇(二十六)菟餓野の鹿と佐伯部の移卿
鹿の肉を献上した佐伯が安芸に左遷
仁徳天皇(二十七)鳴く牡鹿でもないってのに、夢で見たままになった
夢で見た通りに鹿が狩人に殺される諺
仁徳天皇(三十三)百衝はいつも軍の右の先鋒に
新羅へ行った竹葉瀬が道中に白い鹿を得て一旦帰って天皇に献上した
仁徳天皇(三十五)白鳥陵守目杵は白鹿に化けて逃げた
白鳥陵の墓守をクビにしようと思ったら、白鹿に化けて逃げた

鹿が表すもの
鹿というと春日大社などでは「神の使い」で神聖なものです。だから鹿を百舌鳥が食い殺す、このページの話は、どこか妙。わたしは鹿は「狩猟民族の象徴でもあった」のではないか?と考えています。これは真反対の性質なんですけど、そういうイメージが当時あったんじゃないかと思っています。

仁徳天皇の本名は大鷦鷯(オオサザキ)です。「鷦鷯」とは「ミソサザイ」という鳥の名前です。百舌鳥が鹿を食い殺すというのは「鳥…つまり大和朝廷が、鹿…つまり狩猟民族である蝦夷や新羅を、食い殺す」という意味があったのではないかと。それで、百舌鳥が鹿を殺したことを「大和朝廷発展の吉兆」と考えた。

現代のわたしたちは肉を食べるし、穢れの感覚が古代ほどはありませんから、ピンと来ませんが、百舌鳥が鹿を殺すというのはなかなか痛快な吉兆だったに違いないでしょう。もちろん史実じゃないですよ。
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