鷹狩りの始まりと鷹甘邑の由来

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仁徳天皇(三十一)鷹狩りの始まりと鷹甘邑の由来

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原文

卌三年秋九月庚子朔、依網屯倉阿弭古、捕異鳥、獻於天皇曰「臣、毎張網捕鳥、未曾得是鳥之類。故奇而獻之。」天皇召酒君、示鳥曰「是何鳥矣。」酒君對言「此鳥之類、多在百濟。得馴而能從人、亦捷飛之掠諸鳥。百濟俗號此鳥曰倶知。」是今時鷹也。乃授酒君令養馴、未幾時而得馴。酒君則、以韋緡著其足、以小鈴著其尾、居腕上、獻于天皇。是日、幸百舌鳥野而遊獵。時雌雉多起、乃放鷹令捕、忽獲數十雉。是月、甫定鷹甘部、故時人號其養鷹之處、曰鷹甘邑也。

現代語訳

即位43年秋9月1日。
依網屯倉(ヨサミノミヤケ)の阿弭古(アビコ)は不思議な鳥を捕らえて、天皇に献上して言いました。
「わたしめは、常に網を張って鳥を獲っているのですが、未だかってこの鳥の類(タグイ)を得たことはありませんでした。それで不思議に思って献上したのです」
天皇は酒君(サケノキミ)を呼び寄せて、鳥を見せて言いました。
「これ、どういう鳥か?」
酒君は答えて言いました。
「この鳥の類は百済に多くいます。馴らすことができれば、人に従います。また速く飛び、もろもろの鳥を捕らえます。百済の人はこの鳥を名付けて『倶知(クチ)』といいます。
これが現在の鷹です。

酒君に授けて育て馴らしました。幾ばくかの時間が経たないうちに馴らすことが出来ました。酒君は韋(オシカワ=なめし皮)の緡(アシオ=縄)を足につけ、小鈴をその尾につけて、腕(タダムキ=腕)の上に留まらせて、天皇に献上しました。この日、百舌鳥野(モズノ)に行き、遊猟(カリ)をしました。そのときに雌雉(メキギシ)が多く飛んでいた。鷹を放って獲らせました。たちまち数十(アマタ)の雉(キギシ)を獲りました。この月にその鷹を飼うところを名付けて鷹甘邑(タカカイノムラ)というようになりました。
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解説

大鷦鷯天皇
仁徳天皇という名前は、死後につけた名前であって生きているときは「大鷦鷯(オオサザキ)」と呼ばれていました。鷦鷯は「ミソサザイ」という鳥のことです。仁徳天皇は鳥の名前がついているわけです。

仁徳天皇の物語の中の「雌鳥皇女と隼別皇子」との三角関係にしても、この「鷹」の話にしても、不自然なほどに「鳥の神話」が集まっています。仁徳天皇の物語にはまだ「雁が初めて卵を産んだ。卵を産んだのは仁徳天皇が素晴らしい天皇だから」という神話があります。この神話は明らかに「創世神話」であって、仁徳天皇の時代ではなく、かなり古い時代の神話のはずです。

仁徳天皇が「鷦鷯」という名を持つのは、「鳥の神話」があるから…ではなく、「鳥の名前を持つ天皇だから、鳥の神話が割り当てられた」ということなのだと思います。

ところで、日本の縄文時代の遺跡からは「鷹の骨」が発見されていて、どうやら日本人は鷹を食べていた、か少なくとも関わりはあったよう。つまり、鷹を見たことがない、というのは「嘘」なんですよね。鷹は見たことがあった。いや、仁徳天皇時代以前から「鷹を飼っていた」と思います。この「鷹を飼う神話」はもっと古い時代(縄文時代とか)に生まれた神話で、「鷹を飼い始めた」神話を「鷦鷯」という鳥の名を持つ天皇に割り振ったのでしょう。

では、なぜその神話に「百済の酒君」が関わるのか?

これはおそらく「なめし皮」が原因です。日本人は屍体を嫌います。死の穢れにまみれているからです。なめし皮は死んだ動物の皮ですから、めちゃくちゃに穢れています。穢れているなめし皮を鷹の足に装着する「鷹狩り」は日本人が始めたことだとは「言いたくなかった」。そこで鷹狩りは百済の酒君という「殺されかねないほどに無礼」な人間を当てたのだと思います。
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