近江毛野臣の任那出征と筑紫の磐井

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継体天皇(二十五)近江毛野臣の任那出征と筑紫の磐井

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原文

廿一年夏六月壬辰朔甲午、近江毛野臣率衆六萬、欲往任那爲復興建新羅所破南加羅・喙己呑而合任那。於是、筑紫国造磐井、陰謨叛逆、猶預經年、恐事難成、恆伺間隙。新羅知是、密行貨賂于磐井所而勸防遏毛野臣軍。

現代語訳

即位21年夏6月3日。近江毛野臣(オウミノケナノオミ)は衆(イクサ=兵士)6万を率いて任那に行き、新羅に破られた南加羅(アリヒシノカラ)・喙己呑(トクコトン)を取り返して任那に併合しようとしました。そこで筑紫国造(ツクシノクニミヤツコ)の磐井(イワイ)が密かに叛こうと謀っていましたが、心の中で思ってグズグズしてなかなか実行できずにいました。反逆の成り難いと恐れて、常に隙をうかがっていました。新羅はこれを知って、密かに賄賂を磐井のところへと送って、毛野臣の軍を九州で防ぎ止めろと勧めました。
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解説

古代の大事件である「磐井の乱」です。近江毛野臣が6万の軍勢で任那に出征しようとしたところを、後ろからガツンです。6万が本当かは分かりませんが、かなり大きな「変」だった筈です。

これは九州がいまだに大和朝廷に帰属しきっていないという意味にもなるでしょう。

でも、わたしは別の説を持っています。日本は米を基準にした政治を行った。だから米を生産できる地域は大和朝廷に参加しやすかった。鹿児島といった火山灰の土で水捌けが良すぎて米が生産できない「隼人」は大和朝廷への参加が遅れたのはそのあたりでしょう。では米の生産が可能な筑紫が不安定になる理由がない。

筑紫には朝鮮半島を通じて「儒教」が入っていたのではないかと想います。大和朝廷はおそらく「共和国」でした。小さな国が集まり、大和という中央政府を作って運営していた。大和朝廷の最大の目的は「貿易航路の確保」。だから共和国内に上下関係は無かった。誰かが損をすれば誰もが損をするという関係だった。だから揉め事を嫌う性質があった。これは現在の日本人と一緒です。

そこに朝鮮半島を通じて儒教の思想が入った。儒教で大事なのは「上下関係」です。上か下かをハッキリさせることが儒教では大事です。上下関係がはっきりしていると平和になるという思想なんです。これは「揉め事を嫌い」「利益を共有する」大和朝廷の価値観とは真っ向からぶつかります。

磐井の乱はそういう儒教の思想と大和の「和」がぶつかり合った結果の騒乱だったのではないかと想います。
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