百済の姐彌文貴将軍・斯羅の汶得至・安羅の辛已奚と賁巴委佐・伴跛の既殿奚と竹汶至

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継体天皇(十八)百済の姐彌文貴将軍・斯羅の汶得至・安羅の辛已奚と賁巴委佐・伴跛の既殿奚と竹汶至

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原文

冬十一月辛亥朔乙卯、於朝庭、引列百濟姐彌文貴將軍・斯羅汶得至・安羅辛已奚及賁巴委佐・伴跛既殿奚及竹汶至等、奉宣恩勅、以己汶・帶沙賜百濟国。是月、伴跛国、遣戢支獻珍寶、乞己汶之地、而終不賜。

現代語訳

(即位7年)冬11月5日。朝廷(ミカド)に百済の姐彌文貴将軍(サミモンクイショウグン)・斯羅(シラキ=新羅)の汶得至(モントクチ)・安羅(アラ=慶尚南道威安・任那の国の一つ)の辛已奚(シンイケイ)と賁巴委佐(ホンハサワキ)・伴跛(ハヘ=慶尚北道星州付近=任那北部)の既殿奚(コデンケイ)と竹汶至(チクモンチ)などを引き連ねて、恩勅(メグミ=褒賞)を与え、命令を下した。己汶(コモン)・帶沙(タサ)を百済国に与えました。

この月、伴跛国(ハヘノクニ)は戢支(シフキ)を派遣して、珍しい宝を献上して己汶(コモン)の土地を求めました。しかし、ついには与えませんでした。
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解説

人物名と地名がたくさん出ていますが、詳細なことはほとんど分かっていません。百済と新羅と任那の国の人物がやって来て、話し合いがあったようです。それで結局、これまでの通り、百済に割譲があった。その後、任那の「伴跛国」が、宝を献上して土地を得ようとしたが、うまくいかなかった。

これは任那が必ずしも日本の「影響下にあっても属国というわけではない」という証拠の一つではないかと思います。

散々書いていますが、わたしは「大和朝廷は貿易航路を確保するのが目的の共和国」と考えています。共和国というよりは、貿易協定のグループですね。だから所属する国は大和から見ると各国は「仲間」ではあるが「属国」ではなく、各国には独立した権限もあった。これらを束ねる大和の役割の最大は「争いごとを避けること」「揉め事を避ける」ことでした。

そこが「儒教国」である中国と朝鮮との間に「摩擦」が起きる理由で、百済は「争いごとを避ける性質の大和朝廷」に争いごとを持ち込んで、譲歩を迫った。まるで現代の日韓関係ですわ。
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