敏達天皇(一)出自と百済大井宮

MENU
TOP>敏達天皇(日本書紀)>敏達天皇(一)出自と百済大井宮
スポンサードリンク

敏達天皇(一)出自と百済大井宮

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

原文

渟中倉太珠敷天皇、天国排開廣庭天皇第二子也、母曰石姫皇后。石姫皇后、武小廣国押盾天皇女也。天皇、不信佛法而愛文史。廿九年、立爲皇太子。卅二年四月、天国排開廣庭天皇崩。

元年夏四月壬申朔甲戌、皇太子卽天皇位。尊皇后曰皇太后。是月、宮于百濟大井。以物部弓削守屋大連爲大連如故、以蘇我馬子宿禰爲大臣。

現代語訳

渟中倉太珠敷天皇(ヌナクラノフトタマシキノスメラミコト=敏達天皇)は天国排開広庭天皇(アメクニオシハラキヒロニワノスメラミコト=欽明天皇)の第二子です。母は石姫皇后(イシヒメノキサキ)といいます。
石姫皇后は武小広国押盾天皇(タケオヒロクニオシタテノスメラミコト=宣化天皇)の娘です。

天皇は仏法(ホトケノミノリ)を信じず、文史(シルシフミ=文学と史学)を愛し好みました。

欽明天皇29年に皇太子になりました。

欽明天皇32年4月に天国排開広庭天皇(アメクニオシハラキヒロニワノスメラミコト=欽明天皇)が崩御しました。

即位1年の夏4月3日に皇太子は天皇に即位しました。皇后を尊び、皇太后と呼ぶようにしました。

この月に百済大井(クダラノオオイ=現在の大阪府河内長野市太井か奈良県北葛城郡広陵町百か?)に宮殿を作りました。物部弓削守屋大連(モノノベノユゲノオリヤノオオムラジ)を大連としたのは元の通りです。蘇我馬子宿禰(ソガノウマコスクネ)を大臣としました。
スポンサードリンク

解説

物部弓削守屋大連
ここの文章では「物部守屋は以前と同じで大連です」と書いてあるのですが「物部守屋」という名前が初登場です。もしかすると別名で守屋は登場していたのかもしれません。
皇太子となったのは15年?
欽明天皇即位29年に敏達天皇は皇太子となった、とここにはあるのですが欽明天皇の段では15年となっています。

仮にどちらかが「嘘」ならば、都合をつけて辻褄を合わせればいいのに、こういうことになっているのか。何か理由があったのではないかと思いますね。

わたしとしては「二倍歴」が関係していると思います。
 >>>Next 
スポンサードリンク

SNSボタン

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

ページ一覧

スポンサードリンク

管理人リンク

編集