律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造佛工・造寺工を難波の大別王の寺に

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敏達天皇(十二)律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造佛工・造寺工を難波の大別王の寺に

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原文

冬十一月庚午朔、百濟国王、付還使大別王等、獻經論若干卷、幷律師・禪師・比丘尼・呪禁師・造佛工・造寺工、六人。遂安置於難波大別王寺。

現代語訳

(即位6年)冬11月1日。百済国の王は帰国する使者の大別王(オオワケノオオキミ)たちに、経論若干卷(キョウロンソコバク=仏教の三蔵のうちの経蔵と論蔵)と合わせて律師(リツシ=戒律に精通した僧?)・禅師(禅定という心が揺れない状態を導く僧)・比丘尼(ビクニ=尼)・呪禁師(ジュコムノハカセ=呪文を唱えて病災を払う人)・造仏工(ホトケツクルタクミ)・造寺工(テラツクルタクミ)の6人を献上しました。難波の大別王の寺に安置しました。
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解説

百済から経論若干卷…つまりありがたいお経が若干、日本にやって来ました。それとは別に、6人の仏教に関わる技術者がやって来ました。それで「難波の大別王の寺」というのがどこにあるのか? が分かりません。

ところで日本書紀に初めて「寺」が登場するのは欽明天皇です。
参考
欽明天皇(五十三)疫病の発生・難波の堀江に仏像を捨て、寺を焼く
小墾田(オハリダ)の家に仏像や経典などを安置しました。丁寧に出世の業(=出家と同義のはずだが稲目は出家はしていないので未詳)を納めて因(ヨスガ=縁)としました。向原(ムクハラ)の家を清め祓い、寺としました。

ここでは蘇我稲目が仏像や経典をもらって、家に置いていたのです。ここでは「寺」を立てたのではなく、稲目の家の建物の一つを「寺」とした、だけです。

ということはこの大別王の難波の寺は、「造寺工(テラツクルタクミ)」がいるのだから、本当の「寺」かもしれません。となると、日本で最初の寺となります。ただ日本書紀のニュアンスとしては、「寺」設定の普通の家に、6人を住まわせたということかな?と思います。
●仏教自体は九州南部に4世紀には伝わっていたかもしれないので、ここでの「寺」はあくまで公式に国家に伝わった仏教の寺としての「初めて」の寺。
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