恵便と善信尼・その弟子の禅蔵尼と恵善尼

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敏達天皇(二十五)恵便と善信尼・その弟子の禅蔵尼と恵善尼

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原文

是歲、蘇我馬子宿禰、請其佛像二軀、乃遣鞍部村主司馬達等・池邊直氷田、使於四方訪覓修行者。於是、唯於播磨国得僧還俗者、名高麗惠便。大臣、乃以爲師、令度司馬達等女嶋、曰善信尼年十一歲、又度善信尼弟子二人。其一、漢人夜菩之女豊女名曰禪藏尼、其二、錦織壼之女石女名曰惠善尼。壼、此云都苻。

現代語訳

この年(即位13年)。蘇我馬子宿禰(ソガノウマコノスクネ)はその仏像2体を請願して、すぐに鞍部村主司馬達等(クラツクリノスグリシメダチト)・池辺直氷田(イケヘノアタイヒタ)を派遣して、四方(ヨモ=あちこち)に使者を送って、修行者(オコナイヒト=仏教の修行者)を尋ね求めさせました。播磨国に僧還俗(ホフシカエリ=僧になった後、普通の人に戻った人のこと)の人を見つけました。名を高麗の恵便(エベン)といいます。大臣(=蘇我馬子)はすぐに師としました。司馬達等の娘の嶋(シマ)を度(イエデ=出家)させました。善信尼(ゼンシンノアマ)といいます。
年は11歳です。

また善信尼の弟子の二人を度(イエデ=出家)させました。その一人は漢人(アヤヒト)の夜菩(ヤボ)の娘の豊女(トヨメ)…名前を禅藏尼(ゼンゾウノアマ)といいます。その二人目は錦織壺(ニシコリノツフ)の娘の石女(イシメ)…名前を惠善尼(エゼンノアマ)といいます。
壺は都苻(ツフ)といいます。
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解説

蘇我馬子は仏像2体をもらい受け、日本で僧を探しました。すると、一旦、僧になった後に、俗人になった人を見つけ出します。ちなみに、これを「還俗(ゲンゾク)」と言います。

この恵便という人物に、馬子は部下の娘をつけて「尼」にしました。その尼の弟子をさらに二人を尼にしたと。

しかし、どうして「尼」なのか。
多分、ですけど…日本では女の方が霊威が強いという感覚が強かった。これは神功皇后とか、いやいや、それ以前のイザナミの時代からです。仏教って女は「ダメ」なんですよ。仏教では女は「解脱」できないのです。女はまず、男に生まれ変わってから、解脱しないといけない。だから仏教では女は一段下なんです。にも関わらず、蘇我馬子が尼を選んだのは、間違いなく「女=霊威が強い」という感覚があり、日本に仏教を広めるには、まず「女」からの方が自然だと考えたからでしょう。

それはつまり、仏教が日本に広がる最初から、仏教の本質から離れたところにあったということです。そうしてでも仏教を広める必要を蘇我馬子は感じていた。
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