平安神宮

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平安神宮

漢字・読みヘイアンジングウ
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概要

住所:京都市左京区。
平安京へと移した第50代天皇桓武天皇を祀る神社です。現在は桓武天皇だけでなく、孝明天皇も祀っています。どちらの天皇も非常に混乱した時代の天皇であり、その時代に於いて重要な役割を果たした人物です。

物語・由来

桓武天皇
桓武天皇は奈良の平城京で非常に強大化した仏寺の影響力から逃れる目的でまず長岡京に移します。長岡京は平城京よりも優れた町でした。各家に井戸があり、下水(排泄物)も水でしっかりと流し、何より川と近かったので、交通アクセスが便利でした。平城京は辿り着くまでに陸路が長かったのです。
ところが長岡京に移したとたんに奈良の仏教勢力によって部下(藤原種継)が暗殺され、その首謀者の中には弟の早良親王がいました。早良親王は無実を訴えてハンガーストライキし死亡。その後、平城京に様々な疫病や桓武天皇の身内(妻など)が死んでしまいます。これを「早良親王の祟り」――早良親王は後日、崇道天皇と追称(死後に名前を変えること、この場合、位があげられること)していて、御霊信仰――祟りがある恐れから祀られる信仰のこと、怨霊信仰から転化して御霊信仰――の代表格となりました。
桓武天皇は崇道天皇の祟りを恐れて(無論、仏教勢力の影響を減らす意味もあります)、平安京へとまた遷都します。
桓武天皇は最澄・空海を保護し、それまでの日本の仏教の影響を下げようとしたり、東北部にまだあった大和朝廷に従わない蝦夷に対して坂上田村麻呂を征夷大将軍として派兵。征夷大将軍は鎌倉時代以降は事実上の日本のトップを表す呼称です。続日本紀の編纂を命じた天皇でもあります。
孝明天皇
孝明天皇というとピンと来ない人もいますが、明治天皇の父親で明治維新の混乱の中で非常に重要な役割を果たした人物で、大河ドラマでも必ず登場する天皇というとなんとなく思い浮かぶかも。
江戸末期にペリーが来航し開国か否かという際には、攘夷(外国を打ち払うこと)でした。そこで孝明天皇は幕府に「外国船を全部、打ち払え!」と命令します。

桓武天皇が坂上田村麻呂を征夷大将軍として東北へ派遣した――あの征夷大将軍が江戸幕府の「将軍」の正式名称。理屈上は幕府は天皇から征夷大将軍という冠位を貰って幕府を開いているという体裁でした。孝明天皇の時代では天皇や公家は格好だけで、政治的な力を持っていませんでしたが、奇妙なことに水戸藩が打ち立てた朱子学は幕府の存在意儀は天皇から将軍を任じられているから、という大義名分・哲学を非常に長い時間を掛けて構築していたこともあって、天皇の権威が急速に高まります。
孝明天皇は明治維新の動乱の中で天然痘で死んだ、とされていますが、攘夷を曲げない孝明天皇が邪魔になり暗殺されたという説は有力です。

歴史背景

桓武天皇の母親は朝鮮系
桓武天皇の母親は高野新笠。高野新笠が朝鮮半島からの渡来した家系の出身であることから、平成天皇陛下が日韓ワールドカップで韓国に行った際に、

「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。」

と発言しました。これに韓国国民は強い関心を持ち、中には日本の皇族は韓国人と言わんばかりの論調もありました。

ただ当時の百済は日本の属国でしたし、百済の王族の多くは日本で育ち、朝鮮半島に帰っていくという育ち方をしているものが多く、平成天皇の発言はリップサービスを含んだものでしょうね。
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