舒明天皇(二十四)温泉巡り・百済川の九重塔・帚星

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舒明天皇(二十四)温泉巡り・百済川の九重塔・帚星

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原文

十一年春正月乙巳朔壬子、車駕還自温湯。乙卯、新嘗、蓋因幸有間以闕新嘗歟。丙辰、無雲而雷。丙寅、大風而雨。己巳、長星見西北、時旻師曰「彗星也、見則飢之。」秋七月詔曰、今年、造作大宮及大寺。則以百濟川側爲宮處。是以、西民造宮、東民作寺、便以書直縣爲大匠。秋九月、大唐學問僧惠隱・惠雲、從新羅送使、入京。冬十一月庚子朔、饗新羅客於朝、因給冠位一級。十二月己巳朔壬午、幸于伊豫温湯宮。是月、於百濟川側建九重塔。

現代語訳

即位11年春1月8日。車駕(スメラミコト天皇が乗る乗り物)が温湯(ユ)から帰りました。
11日。新嘗祭(=収穫祭)をしました。おそらく有間に行っていたために、新嘗を漏らし、行えなかったのではないか。
12日。雲もないのに雷が鳴りました。
22日。大きな風が吹いて雨が降りました。
25日。長い星が西北に見えました。旻師(ミンシ=僧旻)が言いました。
「帚星(ハハキボシ=彗星)だ。見れば飢える」

秋7月。詔(ミコトノリ)して言いました。
「今年、大宮と大寺を作らせよう」
すぐに百済川(クダラガワ=現在の奈良県の曽我川)のほとりを宮の場所としました。それで西の民は宮を作り、東の民は寺を作りました。書直県(フミノアタイアガタ)を大匠(オオタクミ=建築技師の棟梁)としました。
秋9月大唐(モロコシ=中国)の学問僧の恵隱(エオン)・恵雲(エウン)が新羅の送使(オクルツカイ)に従って京(ミヤコ=ここでは大和のこと)に入りました。
冬11月1日。新羅の客人と朝廷で宴会をしました。それで冠位1級を与えました。
12月14日。舒明天皇は伊予温湯宮に行きました。
この月に百済川のほとりに九重の塔が建ちました。
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解説

舒明天皇の温泉巡り
舒明天皇はおそらく体を悪くしていた。体が悪くしていたから、凶兆として天変地異があったのか、体を悪くしたことも凶兆の一つなのか。ともかく世の中は随分と乱れているよう。

有馬温泉に行っていたがために「新嘗祭」という大事な儀式を行えず。翌年の1年にするということは本当に体を悪くしていたのでしょう。
寺と大宮
そこに来ての「寺と宮作り」です。用明天皇が病気になった時も寺を建てました。

病気だから神仏を祀るようにしたのではないでしょうか。
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