反正天皇の妃と子息子女

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反正天皇の妃と子息子女

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読み下し文

弟、水齒別の命は多治比の柴垣の宮に坐しまして天の下治しめしき。
此の天皇は御身の長、九尺二寸半。御齒の長さ一寸、廣さ二分。上下等しく齊いて既に珠に貫けるが如し。
天皇、丸邇の許碁登の臣の女、都怒の郎女を娶りて生みし御子は甲斐の郎女。 次に都夫良の郎女【二柱】。また同じ臣の女、弟比賣を娶りて生みし御子は財の王。次に多訶辨の郎女。并せて四はしらの王。
天皇の御年は陸拾歳【丁丑の年の七月に崩りき】。 御陵は毛受野に在り。

現代語訳

(履中天皇の)弟の水歯別命(ミズハワケノミコト)は多治比(タジヒ)の柴垣宮(シバガキノミヤ)に居て、天下を収めました。この反正天皇は身長が9尺2寸半(約3m)。歯の長さは一寸(3センチ)、広さは2分(4ミリ)。上下の歯は等しく整って珠(タマ)を繋いでいるようでした。
天皇は和邇許碁登臣(ワニノコゴトノオミ)の娘の都怒郎女(ツノノイラツメ)を娶って産んだ子供が甲斐郎女(カイノイラツメ)です。次が都夫良郎女(ツブラノイラツメ)です。同じ臣の娘の弟比売(オトヒメ)を娶って産んだ子は財王(タカラノオミ)。次に多訶辨郎女(タカベノイラツメ)。合わせて4柱の王です。
天皇の年は60歳で亡くなりました。丁丑(ヒノトウシ)の年の7月に崩御しました。御陵(ミササギ=墓)は毛受野(モズノ)にあります。
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解説

反正天皇についての記述はこれだけ
履中天皇のときに墨江中津王を征伐するという大役を果たしたというのに、記述はこれだけ。それも就任期間が5年と短いことを考えると仕方が無いのかもしれません。

歯について
歯が大きく、歯並びが良いことが「瑞(ミズ)」「歯」で「水歯別」という名前の由来となっています。現在のように栄養状態が良くないのだから、歯がガタガタなことが多かったのに、大きくて綺麗な歯ってのはそれだけで印象的だったんでしょう。無論、誇張はされていると思います。
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