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用明天皇の后と子息子女
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弟、橘の豊日の命、池邊の宮に坐しまして天の下治しめすこと參歳。
此の天皇、稻目宿禰の大臣の女、意富藝多志比賣を娶りて生みし御子は、多米の王【一柱】。また庶妹間人の穴太部の王を娶りて生みし御子は、上宮の厩戸の豊聰耳の命。次に久米の王。次に植栗の王。次に茨田の王【四柱】。また當麻の倉の首、比呂の女、飯の子を娶りて生みし御子は、當麻の王。次に妹須加志呂古の郎女。
此の天皇は【丁未の年の四月十五日に崩りき】、御陵は石寸の掖上に在りしに、後に科長の中の陵に遷しき。
此の天皇、稻目宿禰の大臣の女、意富藝多志比賣を娶りて生みし御子は、多米の王【一柱】。また庶妹間人の穴太部の王を娶りて生みし御子は、上宮の厩戸の豊聰耳の命。次に久米の王。次に植栗の王。次に茨田の王【四柱】。また當麻の倉の首、比呂の女、飯の子を娶りて生みし御子は、當麻の王。次に妹須加志呂古の郎女。
此の天皇は【丁未の年の四月十五日に崩りき】、御陵は石寸の掖上に在りしに、後に科長の中の陵に遷しき。
現代語訳
橘豊日命(タチバナノトヨヒノミコト=用明天皇)は池辺宮(イケノヘノミヤ=奈良県桜井氏安倍あたり)に居て天下を三年、治めました。
この天皇は稲目宿禰大臣(イナメノスクネノオオオミ)の娘の意富芸多志比売(オオギタシヒメ)を娶って産んだ子は多米王(タメノミコ)の1柱です。
また庶妹(ママイモ=腹違いの妹)の間人穴太部王(ハシヒトノアナホベノミコ)を娶って産んだ子は、上宮(カミツミヤ)の厩戸豊聰耳命(ウマヤトノトヨトミミノミコト=のちの聖徳太子)です。次に久米王(クメノミコ)です。次に植栗王(ウエクリノミコ)。次に茨田王(ウマラタノミコ)の四柱です。また当麻倉首比呂(タギマノクラノオビトヒロ)の娘の飯子(イイノコ)を娶って産んだ子は、当麻王(タギマノミコ)。次に妹の須加志呂古郎女(スカシロコノイラツメ)です。
この用明天皇は丁未の年の四月十五日に崩御しました。御陵(ミササギ=墓)は石寸掖上(イワレノワキガミ)に在りましたが、後に科長(シナガ=大阪府南河内郡太子町春日)の中の陵(ミササギ=墓)に移しました。
この天皇は稲目宿禰大臣(イナメノスクネノオオオミ)の娘の意富芸多志比売(オオギタシヒメ)を娶って産んだ子は多米王(タメノミコ)の1柱です。
また庶妹(ママイモ=腹違いの妹)の間人穴太部王(ハシヒトノアナホベノミコ)を娶って産んだ子は、上宮(カミツミヤ)の厩戸豊聰耳命(ウマヤトノトヨトミミノミコト=のちの聖徳太子)です。次に久米王(クメノミコ)です。次に植栗王(ウエクリノミコ)。次に茨田王(ウマラタノミコ)の四柱です。また当麻倉首比呂(タギマノクラノオビトヒロ)の娘の飯子(イイノコ)を娶って産んだ子は、当麻王(タギマノミコ)。次に妹の須加志呂古郎女(スカシロコノイラツメ)です。
この用明天皇は丁未の年の四月十五日に崩御しました。御陵(ミササギ=墓)は石寸掖上(イワレノワキガミ)に在りましたが、後に科長(シナガ=大阪府南河内郡太子町春日)の中の陵(ミササギ=墓)に移しました。
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解説
石寸
「寸」は「村」の略字。「石村(イワレ)」は奈良県桜井市池之内。用明天皇の墓は推古天皇元年に科長(シナガ=大阪府南河内郡太子町春日)に移動したということ。
「寸」は「村」の略字。「石村(イワレ)」は奈良県桜井市池之内。用明天皇の墓は推古天皇元年に科長(シナガ=大阪府南河内郡太子町春日)に移動したということ。
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