河内坂門原陵に葬る

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清寧天皇(八)河内坂門原陵に葬る

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現代語訳

即位4年春1月7日。海表(ワタノホカ=海外)の諸藩(クニグニ)の使者と御堂(ミカド)で宴会しました。物を与えました。それぞれの品がありました。

夏閏5月。大いに酒飲みしました。5日ほど。

秋8月7日。天皇は囚徒(トラエビト)を自ら録(ト)いました(=問う=話し合った)。この日に蝦夷・隼人はともに従うようになりました。

9月1日。天皇は射殿に居ました。百寮(ツカサツカサ=官僚・役人)と海表(ワタノホカ=海外)の使者に詔(ミコトノリ)して射させました。物を与えました。それぞれの品がありました。

即位5年春1月16日。天皇は宮で崩御しました年齢は若干でした。

冬11月9日に河内坂門原陵(カフチノサカトノハラノミサザキ)に葬りました。
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解説

これで清寧天皇の日本書紀記述はおしまい。雄略天皇に比べるとかなり短いですが即位5年で亡くなっているんだからしょうがない。これは雄略天皇が長生きだったから、なのか、それとも別の理由があるのか。

死亡時の年齢の記述が無いのも気似なりますね。ちなみに神皇正統紀には39歳。水鏡などでは41歳。皇代記では42歳と若干ばらつきがありますが、40歳前後で亡くなったよう。資料にバラツキがあるから「若干」となったのかもしれないですね。
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原文

四年春正月庚戌朔丙辰、宴海表諸蕃使者於朝堂、賜物各有差。夏閏五月、大餔五日。秋八月丁未朔癸丑、天皇、親錄囚徒。是日、蝦夷・隼人並內附。九月丙子朔、天皇、御射殿、詔百寮及海表使者射、賜物各有差。

五年春正月甲戌朔己丑、天皇崩于宮、時年若干。冬十一月庚午朔戊寅、葬于河內坂門原陵。
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