吉備上道臣たちは星川皇子を助けようと…

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清寧天皇(四)吉備上道臣たちは星川皇子を助けようと…

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原文

是月、吉備上道臣等、聞朝作亂、思救其腹所生星川皇子、率船師卌艘、來浮於海。既而、聞被燔殺、自海而歸。天皇、卽遣使、嘖讓於上道臣等而奪其所領山部。冬十月己巳朔壬申、大伴室屋大連、率臣連等、奉璽於皇太子。

現代語訳

(雄略天皇即位23年8月)この月、吉備上道臣(キビノカミツミチノオミ)たちは朝(ミカド)に反乱があると聞いて、その稚媛の腹に生まれた星川皇子を救おうと思って、船師(フナイクサ=軍船)を40艘を率いて、海から来て浮かんでいました。すでに焼き殺されたと聞いて、海から帰りました。天皇は使者を派遣して上道臣たちを責めて、その領地としていた山部を奪いました。

冬10月4日。大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)は臣や連たちを率いて、璽(シルシ)を皇太子(=白髪皇子=清寧天皇)に献上しました。
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解説

稚媛とは?
このページでは吉備の一族が、星川皇子を救おうと出向いているのですが、星川皇子はあくまで、日本書紀の設定上は「雄略天皇と稚媛」の子です。稚媛は吉備上道臣田狭のもとに嫁いではいたから「吉備」という名称がついていますが、血統は「吉備」かというと、それは違う。別伝では「葛城の娘」としていますから、星川皇子は血縁でいうと吉備とは何の関係もない。

にもかかわらず星川皇子を助けようと吉備が動いた、ということは星川皇子は「雄略天皇の子」ではなく、田狭の子と考えたほうが自然な気が。

仮に星川皇子が田狭の子だとすると、「安康天皇と眉輪王」と「雄略天皇と星川皇子」という組み合わせがほとんど同じ意味合いになります。眉輪王は安康天皇に父を殺され、母を安康天皇に寝取られ、それを後に知って安康天皇を暗殺した人物です。

このあたりは、どちらも神話なんじゃないかと疑りたくなります。
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