蔵職の設置と鷲住王

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履中天皇(十二)蔵職の設置と鷲住王

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原文

六年春正月癸未朔戊子、立草香幡梭皇女、爲皇后。辛亥、始建藏職、因定藏部。二月癸丑朔、喚鯽魚磯別王之女太姫郎姫・高鶴郎姫、納於後宮、並爲嬪。於是、二嬪恆歎之曰「悲哉、吾兄王、何處去耶。」天皇聞其歎而問之曰「汝何歎息也。」對曰「妾兄鷲住王、爲人强力輕捷、由是、獨馳越八尋屋而遊行。既經多日、不得面言、故歎耳。」天皇、悅其强力以喚之、不參來、亦重使而召、猶不參來、恆居於住吉邑。自是以後、廢以不求、是讚岐国造・阿波国脚咋別、凡二族之始祖也。

三月壬午朔丙申、天皇玉體不悆、水土弗調、崩于稚櫻宮。時年七十。冬十月己酉朔壬子、葬百舌鳥耳原陵。
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現代語訳

即位6年春1月6日。
草香幡梭皇女(クサカノハタビノヒメミコ)を皇后としました。29日に藏職(クラノツカサ)を建てました。蔵部(クラヒトベ)を定めました。

2月1日。鯽魚磯別王(フナシワケノオオキミ)の娘の太姫郎姫(フトヒメノイラツメ)と高鶴郎姫(タカツルノイラツメ)を呼び寄せて、後宮に入れて、嬪(ミメ=皇后→妃→嬪、という具合に位が低い)としました。この二人の嬪(ミメ)は常に嘆いて言いました。
「悲しいかな。
私の兄王(イロセノオオキミ)はどこかに去ってしまいました」
天皇はその嘆きを聞いて、問いました。
「お前はどうして嘆いているのか」
答えて言いました。
「わたしめの兄の鷲住王(ワシスミノオオキミ)の人となりは、力が強くて軽くて早い。それで一人で八尋屋(ヤヒロヤ=大きな家)を飛び出して行き、多くの日を経ましたが、会えていません。だから嘆いているのです」
天皇は強い力があると聞いて喜んで呼び寄せました。しかし参上しませんでした。使者を重ねて派遣して呼び寄せましたが、参上しません。鷲住王は住吉邑(スミノエノムラ)にいました。これ以後、呼び寄せるのは止めて、探し求めもしませんでした。讃岐国造(サヌキノクニノミヤツコ)・阿波国(アワノクニ)の脚咋別(アシクイワケ)の二族の始祖です。

3月15日。天皇は玉体不悆(オオミヤマイ=病気)になって水土弗調(ヤクサム=病気で体が臭くなる)しました。稚桜宮(ワカサクラノミヤ)で崩御しました。このとき70歳でした。

冬10月4日。百舌鳥耳原陵(モズノミミノハラノミサザキ)に葬りました。
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解説

鷲住王
天皇の命令を跳ね除け、無視して、そして天皇もそれを諦めた。そして、その子孫も残っている、相当な実力者というか気が強いというか。

鯽魚磯別王の娘たちの兄ということは、当然、鷲住王は鯽魚磯別王の子供ということになります。鯽魚磯別王という名前からすると、海人族ですが、鷲住という名前なのは何故なんでしょうか?
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