安万呂、古事記編纂を命じられる

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安万呂、古事記編纂を命じられる

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概要

ここに舊辭の誤り忤へるを惜しみ、先紀の謬り錯れると正さむとして、和銅四年九月十八日を以ちて、臣安萬侶に詔りして、稗田阿禮が誦む所の勅語の舊辭を撰録して、獻上せしむといへれば、謹みて詔旨のまにまに、子細に採り?ひぬ。

現代文訳

元明天皇は歴史や伝承に間違いや嘘が混じっていることを悲しみ、これを正そうと考え、和銅四年9月18日に臣安万呂に、稗田阿礼が天武天皇の命で記憶していた歴史・伝承を書いて書物にするように命じました。臣安万呂は物語を編纂することになりました。

解説

というわけで、天武天皇が稗田阿礼に命じて集めさせた物語は元明天皇の代になってやっと書物にすることになりました。それが和銅4年の9月。書物を献上したのが和銅5年の正月ですから、わずか三カ月で編纂し献上したということになります。

ホンマかいな。
古事記は偽書、と言われるのはこのあたりにも原因があるのかもしれないですね。
嘘が混じっている?
各地に残る神話に嘘が混じっている、これを正す。そういう目的で書かれたということです。言葉通りに受け取るわけには行きませんし、こういった政治目的で書かれた本に当時の為政者の都合があるのはいたし方の無いもの。

天皇と古事記
本を書くことで、「天皇」の価値を上げる、もしくは確定しようとしていた、とも考えられます。

「天皇」と言う言葉は古事記編纂の前後に成立したと考えられています。これ、意外じゃないですか?? この天皇という名称を後世に残し、日本が日本たる所以を作ったのが記紀、という捉え方もできます。

天皇という言葉の成立は、古くても推古天皇、新しくても天武天皇までです。それまで「大王(オオキミ)」と呼んでいました。つまり国の一つであり、アジアの一地域に過ぎませんでした。
それが天皇と名乗ることで、大国「中国」から独立した「日本」という世界を作り上げ、その後の文化の礎となりました。よく聖徳太子が「日出る処の天子」と名乗ったのも、日本の独立と考えるとシックリ来ます(中国の天帝が切れた理由もシックリ来る)。ちなみに聖徳太子のときの天皇は推古天皇です。
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