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天武天皇(十)鈴鹿→川曲→三重郡
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爰国司守三宅連石床・介三輪君子首、及湯沐令田中臣足麻呂・高田首新家等、參遇于鈴鹿郡。則且發五百軍、塞鈴鹿山道。到川曲坂下、而日暮也。以皇后疲之暫留輿而息、然夜曀欲雨、不得淹息而進行。於是、寒之雷雨已甚、從駕者衣裳濕、以不堪寒。乃到三重郡家、焚屋一間而令熅寒者。是夜半、鈴鹿關司、遣使奏言「山部王・石川王並來歸之、故置關焉。」天皇、便使路直益人徵。
現代語訳
国司守(クニノミコトモチノカミ)の三宅連石床(ミヤケノムラジイワトコ)・介(スケ=副役)の三輪君子首(ミワノキミコビト)と湯沐令(ユノウナガシ)の田中臣足麻呂(タナカノオミタリマロ)・高田首新家(タカタノオビトニイノミ)たちは、鈴鹿郡で参上し、合流しました。また500人の軍隊を起こして鈴鹿山道を塞ごうとしました。川曲(カワワ=伊勢国河曲郡=現在の三重県鈴鹿市山辺?)の坂下(サカモト)に到着した頃に日が暮れました。皇后が疲れたので、しばらく輿(コシ=乗り物)を留めて、休息しました。すると夜になり、曇って雨が降って来ました。休息はできないので、進み行くことになりました。寒くなり、雷が鳴り、雨がひどくなりました。駕(ミユキ=天皇の乗り物)の従者は衣裳が濡れて、寒さに耐えられなくなりました。三重郡家(ミエノコオリノミヤケ)に到着して、家屋を1つ焼いて、凍えている者を温めました。この夜中に鈴鹿関司(スズカノセキノツカサ)が使者を派遣して申し上げて言いました。
「山部王・石川王は一緒に来ました。それで関に居らせています」
天皇はすぐに路直益人(ミチノアタイマスヒト)を使いに出して呼び寄せました。
「山部王・石川王は一緒に来ました。それで関に居らせています」
天皇はすぐに路直益人(ミチノアタイマスヒト)を使いに出して呼び寄せました。
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解説
お伴の人が寒がっているからって、家を焼いて暖を取るなんて、天武天皇はやたらとワイルド。しかし、人望があるのかどんどんと合流します。
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- Page6 天武天皇(六)美濃で兵を集める・不破道を塞ぐ
- Page7 天武天皇(七)留守司の高坂王の駅鈴
- Page8 天武天皇(八)東国へ・最初から従っていた臣・合流した臣・隱駅家を焼く
- Page9 天武天皇(九)横河に黒雲・伊賀→莿萩野→積殖→鈴鹿
- Page10 天武天皇(十)鈴鹿→川曲→三重郡
- Page11 天武天皇(十一)朝明郡の迹太川・不破道を塞ぐ・桑名郡家で宿泊
- Page12 天武天皇(十二)近江朝廷の対応
- Page13 天武天皇(十三)当摩公広嶋の暗殺・栗隅王の暗殺未遂
- Page14 天武天皇(十四)大伴連馬來田と吹負は近江王朝を捨てる
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