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天武天皇(十四)大伴連馬來田と吹負は近江王朝を捨てる
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現代語訳
この時、大伴連馬来田(オオトモノムラジマグタ)・弟の吹負(フケイ)は一緒に、その時の否(ヨクモアラヌ=ここでは失敗の意味)を見て、病気を自称して、倭の家に退いて帰りました。そうしてその登嗣位(アマツヒツギシラサム=天皇位に就く)のは、必ず吉野に居る、大皇弟(マウケノキミ=大海人皇子)だということがわかりました。それで、馬来田(マグタ)は先立って天武天皇に従いました。ただし、吹負(フケイ)だけは留まって考えて、まずは名を立ててから、艱難(ワザワイ=困難)をやわらげようと、思いました。すぐに一人、二人の族(ヤカラ=親族や仲間)や、諸々の豪傑を呼び寄せて、数十人を得ました。
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解説
前のページのラストに、岐阜県不破郡の山の道で、大海人皇子の仲間に襲われて、這々の態で逃げたというお話が近江朝廷に伝わったのでしょう。それを聞いた、大伴連馬来田の兄弟は近江朝廷を捨てて、大海人皇子に味方します。
大海人皇子に着いた理由の中には、近江王朝が栗隈王を殺せなかったこともあったのではないかと思います。
大海人皇子に着いた理由の中には、近江王朝が栗隈王を殺せなかったこともあったのではないかと思います。
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- Page10 天武天皇(十)鈴鹿→川曲→三重郡
- Page11 天武天皇(十一)朝明郡の迹太川・不破道を塞ぐ・桑名郡家で宿泊
- Page12 天武天皇(十二)近江朝廷の対応
- Page13 天武天皇(十三)当摩公広嶋の暗殺・栗隅王の暗殺未遂
- Page14 天武天皇(十四)大伴連馬來田と吹負は近江王朝を捨てる
- Page15 天武天皇(十五)高市皇子に軍を授ける
- Page16 天武天皇(十六)和蹔と往復し、軍を検校
- Page17 天武天皇(十七)飛鳥寺の陣営の内応・穂積臣百足の殺害・軍を整備し乃楽へ
- Page18 天武天皇(十八)倭と近江へ兵を・赤色を衣の上に着る
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