縮見屯倉首忍海部造細目の新室で皇子を発見

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清寧天皇(六)縮見屯倉首忍海部造細目の新室で皇子を発見

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原文

二年春二月、天皇、恨無子、乃遣大伴室屋大連於諸国、置白髮部舍人・白髮部膳夫・白髮部靫負、冀垂遺跡令觀於後。冬十一月、依大嘗供奉之料、遣於播磨国司、山部連先祖伊豫來目部小楯、於赤石郡縮見屯倉首忍海部造細目新室、見市邊押磐皇子々億計・弘計、畏敬兼抱、思奉爲君、奉養甚謹、以私供給、便起柴宮、權奉安置。乘騨馳奏、天皇愕然驚歎、良以愴懷曰「懿哉悅哉、天垂博愛、賜以兩兒。」是月、使小楯持節、將左右舍人、至赤石奉迎、語在弘計天皇紀。

現代語訳

即位2年春2月。天皇は子が居ないことを恨み、大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)を諸国に派遣して、白髪部舎人(シラカベノトネリ)・白髮部膳夫(シラカベノカシワデ)・白髮部靫負(シラカベノユケイ=靫は矢を入れる筒で靫負は警備職のこと)を設置しました。願わくは、後々に伝えようとしました。

冬11月。大嘗(オオニエ=天皇即位後にする新嘗の儀式)に奉る料(シロ)を、播磨国に派遣した司(ミコトモチ=役人)の山部連(ヤマベノムラジ)の祖先の伊予来目部小楯(イヨノクベノオダテ)は、赤石郡(アカシノコオリ)の縮見屯倉首忍海部造細目(シジミノミヤケノオビトオシヌミベノミヤツコホソメ)の新室(ニイムロ)で市辺押磐皇子(イチノヘノオシハノミコ)の子の億計(オケ)・弘計(オケ)を見つけました。子供たちを、恐れ敬い抱き上げ、君主として奉ろうと思いました。奉り養うことは謹んで、私物で供えました。柴の宮をたてて、仮に安置して奉りました。駅で馬に乗り、走らせて朝廷に申し上げました。天皇は驚愕し嘆いて、痛々しく思って言いました。
「よきかな。よろこばしきかな。天は大いなる愛をもって、二人の児を与えたのだ」
この月、小楯に命じて、節(シルシ)を持った左右(モトコ=側の人)の舎人を赤石に到着して二人の児を迎えさせました。このことは弘計天皇紀にあります。
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解説

白髪部
清寧天皇の本名は白髪皇子で、その名前を後世に残そうとして白髪部を設置したと。なぜなら子が居ないから。ここはおそらく儒教的な考えが根本にあると思います。儒教では先祖と子孫が「一体」であり「同一」です。だから、子孫がいる限り、先祖も存在し続けることになります。子孫の命と同一だから、永遠に生き続けることになるわけです。ちなみに子孫は先祖を祀る義務が生じます。しかし子の居ない清寧天皇は、子孫がおらず、清寧天皇を祀るものは居ない。よってその名を冠した白髪部という部署を設置することで名前を残し、永遠の存在になろうとした。ということです。
市辺押磐皇子
市辺押磐皇子は雄略天皇の政敵で、雄略天皇に殺された人物。葛城の血筋で、履中天皇の子。血統からいうと雄略天皇よりも天皇に近いはずの人物。

この市辺押磐皇子の子が播磨で発見されたわけです。
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