波邇賦坂 我が立ち見れば

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波邇賦坂 我が立ち見れば

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読み下し文

本、難波の宮に坐しましき時に、大嘗に坐しまして豊明を爲し時に、大御酒に宇良宜て大御寢しき。 爾くして其の弟、墨江中王、天皇を取らんと欲いて火を大殿に著けき。 ここに倭の漢の直が祖、阿知の直、盜み出して御馬に乘せ倭に幸さしめき。 故、多遲比野に到りて寤めて詔らさく、「此間は何處ぞ」。爾くして阿知の直、白さく、「墨江中王、火を大殿に著けき。故、率て倭に逃ぐるぞ。」爾くして、天皇、歌いて曰く、
多遲比怒邇 泥牟登斯理勢婆 多都碁母母 母知弖許麻志母能 泥牟登斯理勢婆
波邇賦坂に到りて、難波の宮を望み見るに、其の火、猶お炳し。 爾くして、天皇、また歌いて曰く、
波邇布邪迦 和賀多知美禮婆 迦藝漏肥能 毛由流伊幣牟良 都麻賀伊幣能阿多理
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現代語訳

履中天皇が最初、難波宮(ナニワノミヤ)に居たときのことです。大贄(オオニエ=新嘗祭=収穫祭)の豊明(トヨノアカリ=トヨアカリ=酒宴)をしていたときに、大御酒(オオミキ=酒)にほろ酔いになり、寝てしまいました。それで弟の墨江中王(スミノエノナカツミコ)が天皇の位を奪おうと思って、火を宮殿につけました。倭漢直(ヤマトノアヤノアタイ)の先祖の阿知直(アチノアタイ)が天皇を連れ出して馬に乗せて倭に連れて行きました。多遲比野(タジヒノ=大阪府羽曳野市)に到着して目を覚まして言いました。
「ここはどこだ?」
阿知直(アチノアタイ)は言いました。
「墨江中王(スミノエノナカツミコ)が火を宮殿につけました。それで連れて倭へと逃げているのです」
それで天皇は歌いました。
多遲比野に 寝むと知りせば 立薦(タツゴ)も 持ちて来ましもの 寝むと知りせば
歌の訳丹比野に寝ることが分かっていたら、薦(コモ=風除けに立てるもの)を持って来たのになぁ。丹比野で寝るって知っていたらなぁ

(河内の)波邇賦坂(ハニフザカ=羽生坂=大阪府羽曳野市野々上)に到着して難波宮を眺望すると、火が赤々と燃えていました。天皇は歌を歌いました。
波邇賦坂 我が立ち見れば かぎろひの 燃ゆる家村 妻が家あたり
歌の訳羽生坂で私が立って見渡すと(「かぎろいの」は燃えるの枕詞。おそらく「陽炎=カゲロウ」のこと)燃える家や村が見える。妻の家のあたりだ
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解説

墨江中津王
墨江中津王は仁徳天皇と石之日売の間の子供で、履中天皇とは同腹の兄弟となります。

呑気すぎる歌と物語のギャップ
酒を飲んで酔っ払って寝ている隙に宮に火をつけられてしまい、部下の機転で一命を取り留めた履中天皇。その逃亡の道の途中で、呑気にも歌を歌います。天岩戸神話でも「太陽喪失」という大事件に対して「宴会を開く」ことで解決を図ったくらいですから、「ピンチに歌を歌う」ってのは案外と古代の日本人にとってはスタンダードな解決方法だったのかもしれません。少なくとも「政変」と「歌」という組み合わせに当時の人は違和感を持たない土壌があったんだろうな、とは思います。
歌の意味
歌はおそらくは「国見の歌」だったと思われます。日本人は山に神が居て、その神が里に下りて作物ができると思っていました。だから「神性の人物」「霊威の強い人物」が山に登って周囲を見るということは大事な初春の儀式だった、のだと思います。その時の歌がこの段の歌です。

ところで
波邇賦坂 我が立ち見れば かぎろひの 燃ゆる家村 妻が家あたり
という歌は「波邇布邪迦 和賀多知美禮婆 迦藝漏肥能 毛由流伊幣牟良 都麻賀伊幣能阿多理」という漢字の音で書かれたものをひらがなと漢字で書きなおしたものなんですね。推測なんです。だから上記の漢字が正しいとは限りません。わたしは「燃える」という字は本来は「萌える」だったんじゃないかと思うんです。萌えるってのは、新芽が出て若々しい様子です。つまり春に新芽が芽吹いて生き生きとした様子を歌ったもので、「萌える」を「燃える」と捉えて、火をつけた物語とリンクさせているだけで、本当はそういう牧歌的な歌だったんじゃないかな、と。そう考えると多遲比野に 寝むと知りせば 立薦(タツゴ)も 持ちて来ましもの 寝むと知りせばの意味もかなり変わってしまい、「春の陽気の中で昼寝できたら最高じゃん!」という歌になってきます。これなら色々と納得でしょう。
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