意富祁命・袁祁命による志毘臣の殺害

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意富祁命・袁祁命による志毘臣の殺害

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書き下し文

明くる旦の時に、意富祁の命・袁祁の命、二柱議りて云いしく「凡そ朝廷の人等は、旦は朝廷に參い赴き、晝は志毘が門に集えり。また、今は志毘必ず寢ねたらん。また其の門に人無し。故、今に非ずは謀ること難かる可し」。即ち軍を興して志毘の臣の家を圍み、乃ち殺しき。

現代語訳

明くる朝に意富祁命(オオケノミコト)・袁祁命(ヲケノミコト)は二人で話し合いしました。
「おおよその朝廷(ミカド)の人たちは、朝は朝廷に参上し赴いているが、昼には志毘(シビ)の家に集まっている。今は、まだ志毘は必ず寝ているだろう。また、その家には人がいない。だから今なら、謀ること(=ここでは暗殺)するのは難しくないだろう」
すぐに軍を起こして志毘臣(シビノオミ)の家を囲み、殺してしまいました。
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解説

二人の王子
二人の王子は葛城氏です。葛城氏は権勢を誇っていたのですが、雄略天皇による半ばクーデターのような行動によって、人材が削られてしまいました。結局、葛城系の飯豊王がリリーフ天皇となり、その後、二人の王子に権力は移譲されることにはなり、多少は盛り返したのですが、葛城氏が「凋落」著しい状態だったのは間違いないのですね。

おそらく・・・血統で仕方がないとはいえ、この二人の王子に天皇をさせることを不快に思っていた勢力があったのでしょう。その一部である志毘臣を殺したことで二人は天皇になるのですが、結局、仁賢天皇は「非葛城系」の雄略天皇の皇女を嫁に貰い、その子供の武烈天皇の死後、全く別系統の「継体天皇」が生まれることで、この葛城vs非葛城の戦いはとりあえず終わります。
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