昆支王の子の末多王は東城王に

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雄略天皇(五十七)昆支王の子の末多王は東城王に

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原文

廿三年夏四月、百濟文斤王、薨。天王、以昆支王五子中第二末多王・幼年聰明、勅喚內裏、親撫頭面、誡勅慇懃、使王其国、仍賜兵器、幷遣筑紫国軍士五百人、衞送於国、是爲東城王。是歲、百濟調賦、益於常例。筑紫安致臣・馬飼臣等、率船師以擊高麗。秋七月辛丑朔、天皇寢疾不預、詔、賞罰支度、事無巨細並付皇太子。

現代語訳

即位23年春4月。百済の文斤王(モンコンオウ=三斤王と同一)が死にました。天王(スメラミコト)は昆支王(コンキオウ)の五人の子の中から第二子にあたる末多王(マタオウ)は幼年ではありますが聡明でしたので、詔(ミコトノリ)をして内裏(オオウチ=宮殿内)に呼び寄せました。自ら頭面(コウベ)を撫でて、誡勅(イマシムルミコト=命令書)に対して慇懃(ネンゴロ=礼儀正しく)で、その国の王となりました。それで兵器を与えられ、合わせて筑紫国の軍士500人を派遣して国を防衛するよう送りました。これを東城王(トウセイオウ)としました。

この年、百済からの調賦(ミツキモノ)は例年よりも多かった。筑紫の安致臣(アチノオミ)・馬飼臣(ウマカイノオミ)は船師(フナイクサ=軍船=軍船の兵士)を率いて高麗を撃ちました。

秋7月1日。天皇は寢疾不預(ミヤマイ=病で伏せって寝ること)しました。詔(ミコトノリ)して、賞罰支度(マツリゴトオキテ=天皇の仕事のこと)を大きなことも小さなことも無く、すべて皇太子に委ねました。
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解説

百済は475年に高麗によって王は殺され、ほぼ滅んだことになっています。それが日本の援助によって国の再興を図ることになります。これだけ日本が肩入れするのは、まず百済が交易路として重要な位置にあったから、でしょう。
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