生磐宿禰の謀略・帯山城を築く

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顕宗天皇(二十二)生磐宿禰の謀略・帯山城を築く

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原文

是歲、紀生磐宿禰、跨據任那、交通高麗、將西王三韓、整脩宮府、自稱神聖。用任那左魯・那奇他甲背等計、殺百濟適莫爾解於爾林。(爾林、高麗地也)。築帶山城、距守東道、斷運糧津、令軍飢困。百濟王、大怒、遣領軍古爾解・內頭莫古解等、率衆趣于帶山攻。於是、生磐宿禰、進軍逆擊、膽氣益壯、所向皆破、以一當百。俄而兵盡力竭、知事不濟、自任那歸。由是、百濟国、殺佐魯・那奇他甲背等三百餘人。

現代語訳

(即位3年)この年、紀生磐宿禰(キノオイワノスクネ)は任那(ミマナ)に越境して立ち寄り、高麗と通いました。西の三韓(ミツノカラクニ)の王になろうとして、官府(ミヤツカサ)を整え、治めて、神聖(カミ)と自称しました。任那の左魯(サル)・那奇他甲背(ナカタカフハイ)たちが策謀して、百済の適莫爾解(チャクマクニゲ)を爾林(ニリム=地名)で殺しました。
爾林は高麗の土地です。

帯山城(シトロモロノサシ=現在の全羅道北道井邑市の泰仁)を築いて、東道を防いで守りました。すると粮(カテ=食料)を運ぶ津(ツ=港)が断絶して、軍隊は飢え、苦しみました。百済の王はとても怒り、領軍(イクサ)の古爾解(コニゲ)と内頭莫古解(ナイトウマクコゲ)たちを派遣して、軍隊を率いて帯山に行き、攻めました。生磐宿禰(オイワノスクネ)は軍隊を進めて逆に迎え撃ちました。胆気益壮(イキオイマスマスサカリ)で向かうところで敵を皆破りました。一人で敵100人に当たりました。しばらくして、武器は尽き枯れました。それで事が成らないと分かって、任那へと帰りました。これにより百済国は佐魯(サル)・那奇他甲背(ナカタカフハイ)たち300人あまりを殺しました。
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解説

紀生磐宿禰は高句麗と組んで、百済の適莫爾解を高句麗の土地で殺しました。百済と高句麗はお世辞にも良い関係ではありませんから、どうして高句麗で殺すことが出来たのかは何とも。人質として高句麗に送られたのかもしれません。古代ではよくあることです。

その後、百済と任那の国境あたりに「帯山城」という城を築いて交通路を遮断。結局戦争には負け、任那に帰って行きました。

こういうと、日本が百済を侵略しようとして失敗した、と思うのですが、私は別の考えを持っています。

日本の大和朝廷は「貿易経済圏」を共有するグループだった。地方の国々が貿易しやすいように整えるのが大和朝廷の役割で、現在のTPP議長のようなものが天皇だった。つまり参加国は大和朝廷に参加はしていても独立していた。それぞれの国で争いがあり、侵略や戦争はあるものだった。このページの記事は任那の紀生磐宿禰が三韓の王になろうと画策したが結局失敗したというお話ではあるが、どこか記事の内容が他人事なのはそういう理由があるからだろうと。

それに仮に日本が生磐宿禰を使って侵略をしたというのならば、百済との関係はもっと悪化しないといけない。辻褄が合わない。
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