須流枳・奴流枳の献上・額田邑熟皮高麗の子孫

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仁賢天皇(九)須流枳・奴流枳の献上・額田邑熟皮高麗の子孫

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原文

是歲、日鷹吉士還自高麗、獻工匠須流枳・奴流枳等、今大倭国山邊郡額田邑熟皮高麗、是其後也。

七年春正月丁未朔己酉、立小泊瀬稚鷦鷯尊、爲皇太子。

八年冬十月、百姓言「是時、国中無事、吏稱其官、海內歸仁、民安其業。」是歲、五穀登衍、蠶麥善收。遠近淸平、戸口滋殖焉。

十一年秋八月庚戌朔丁巳、天皇崩于正寢。冬十月己酉朔癸丑、葬埴生坂本陵。

現代語訳

この年(仁賢天皇即位6年)に日鷹吉士(ヒタカノキシ)は高麗から帰ってきて工匠(テヒト=手工芸技術者)の須流枳(スルキ)・奴流枳(ヌルキ)を献上しました。今、大倭国の山辺郡の額田邑(ヌカタノムラ=大和国平群郡額田郷=現在の奈良県大和郡額田部北町・寺町・南町)の熟皮高麗(カワオシノコマ=皮をなめして作る集団)はこれの子孫です。

即位7年春1月3日。小初瀬稚鷦鷯尊(オハツセノワカサザキノミコト=武烈天皇)を立てて皇太子としました。

即位8年冬10月に百姓は言いました。
「この時は、国中が事件が無く、吏(ツカサ=役人)はその官(ツカサ=官職)にふさわしい仕事をしていた。海内(アメノシタ)が天皇の仁愛に帰属して、民はその仕事を安らかに行った」

この年、五穀豊穣で蚕・麦がよく収穫できました。遠い異民族の土地も都に近い土地も、清らかで平和で、百姓の家々はさらに蓋かになりました。

即位11年秋8月8日。天皇は正寝(オオトノ)で崩御しました。

冬10月5日。埴生坂本陵(ハニフノサカモトノサザキ)に葬りました。
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解説

これにて仁賢天皇は終了。即位11年で崩御しています。記述によれば、社会は安定していたとあります。顯宗天皇と仁賢天皇という兄弟は、位を譲り合い、仲が良い印象がありますが、顯宗天皇の皇后が仁賢天皇がまだ皇太子の時代に、無礼なことをしたのを理由に自殺していることを考えると二人の関係は、仲むつまじい兄弟というものではない、と考えたほうが自然でしょうね。
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