スポンサードリンク
武烈天皇(十二)小泊瀬舎人の設置と麻那君の調
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket原文
五年夏六月、使人伏入塘楲、流出於外、持三刃矛刺殺、爲快。六年秋九月乙巳朔、詔曰「傳国之機、立子爲貴。朕無繼嗣、何以傳名。且依天皇舊例、置小泊瀬舍人、使爲代號・萬歲難忘者也。」冬十月、百濟国遣麻那君、進調。天皇、以爲百濟歷年不脩貢職、留而不放。
現代語訳
即位5年夏6月。武烈天皇は人を池の楲(ヒ=池の水を通す水路)に伏せて入らせて、外へと流れ出るのを三刃(ミツハ)の矛を持って刺し殺すことを楽しみとしました。
即位6年秋9月1日に詔(ミコトノリ)していいました。
「国の政治は子へと伝えるものであり、皇太子を立てることはとても大事なことだ。朕(ワレ)には後継がいない。何を持って名を伝えるべきだろうか。天皇の旧例(フルコト)から小泊瀬舎人(オハツセノトネリ)として私の代の号(ナ=名)として万歳(ヨロズトセ)に忘れないようにしよう」
冬10月。百済国は麻那君(マナキシ)を派遣して、調(ミツキ=貢物)を進呈しました。天皇は、百済は年を経ても貢職(ミツキ)を修めていないと思いました。それで留めて放しませんでした。
即位6年秋9月1日に詔(ミコトノリ)していいました。
「国の政治は子へと伝えるものであり、皇太子を立てることはとても大事なことだ。朕(ワレ)には後継がいない。何を持って名を伝えるべきだろうか。天皇の旧例(フルコト)から小泊瀬舎人(オハツセノトネリ)として私の代の号(ナ=名)として万歳(ヨロズトセ)に忘れないようにしよう」
冬10月。百済国は麻那君(マナキシ)を派遣して、調(ミツキ=貢物)を進呈しました。天皇は、百済は年を経ても貢職(ミツキ)を修めていないと思いました。それで留めて放しませんでした。
スポンサードリンク
解説
あいかわず残虐描写
今度は水路に人を入れて、それを水で流して出てきたところを矛で串刺しという、もう笑っちゃうくらいに残虐。
百済の調と貢職
調ってのは物品です。それに対して貢職はおそらく職人(人材)でしょう。つまり物品と職人の両方を納めなくてはいけなかった。ところが百済は物品しか納めなかったので、使者を留め置かれることになった、のではないかと。
今度は水路に人を入れて、それを水で流して出てきたところを矛で串刺しという、もう笑っちゃうくらいに残虐。
百済の調と貢職
調ってのは物品です。それに対して貢職はおそらく職人(人材)でしょう。つまり物品と職人の両方を納めなくてはいけなかった。ところが百済は物品しか納めなかったので、使者を留め置かれることになった、のではないかと。
スポンサードリンク
SNSボタン
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocketページ一覧
武烈天皇(日本書紀)の表紙へ
- Page8 武烈天皇(八)大伴金村による真鳥の誅殺と塩の呪い
- Page9 武烈天皇(九)大伴金村連は太子に尊号を奉り、大連となる
- Page10 武烈天皇(十)妊婦の腹を割いて胎児を見る・生爪をはがして芋を掘らせる
- Page11 武烈天皇(十一)末多王を捨て、嶋王を武寧王とした
- Page12 武烈天皇(十二)小泊瀬舎人の設置と麻那君の調
- Page13 武烈天皇(十三)樹に昇らせて弓で射って笑う・期我君と法師君
- Page14 武烈天皇(十四)女に馬の交尾を見せる・苑での酒宴と痴態
スポンサードリンク