小泊瀬舎人の設置と麻那君の調

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武烈天皇(十二)小泊瀬舎人の設置と麻那君の調

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原文

五年夏六月、使人伏入塘楲、流出於外、持三刃矛刺殺、爲快。六年秋九月乙巳朔、詔曰「傳国之機、立子爲貴。朕無繼嗣、何以傳名。且依天皇舊例、置小泊瀬舍人、使爲代號・萬歲難忘者也。」冬十月、百濟国遣麻那君、進調。天皇、以爲百濟歷年不脩貢職、留而不放。

現代語訳

即位5年夏6月。武烈天皇は人を池の楲(ヒ=池の水を通す水路)に伏せて入らせて、外へと流れ出るのを三刃(ミツハ)の矛を持って刺し殺すことを楽しみとしました。

即位6年秋9月1日に詔(ミコトノリ)していいました。
「国の政治は子へと伝えるものであり、皇太子を立てることはとても大事なことだ。朕(ワレ)には後継がいない。何を持って名を伝えるべきだろうか。天皇の旧例(フルコト)から小泊瀬舎人(オハツセノトネリ)として私の代の号(ナ=名)として万歳(ヨロズトセ)に忘れないようにしよう」

冬10月。百済国は麻那君(マナキシ)を派遣して、調(ミツキ=貢物)を進呈しました。天皇は、百済は年を経ても貢職(ミツキ)を修めていないと思いました。それで留めて放しませんでした。
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解説

あいかわず残虐描写
今度は水路に人を入れて、それを水で流して出てきたところを矛で串刺しという、もう笑っちゃうくらいに残虐。
百済の調と貢職
調ってのは物品です。それに対して貢職はおそらく職人(人材)でしょう。つまり物品と職人の両方を納めなくてはいけなかった。ところが百済は物品しか納めなかったので、使者を留め置かれることになった、のではないかと。
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