使主・小杵の国造をめぐる争い

MENU
TOP>安閑天皇・宣化天皇(日本書紀)>安閑天皇(十)使主・小杵の国造をめぐる争い
スポンサードリンク

安閑天皇(十)使主・小杵の国造をめぐる争い

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

原文

武藏国造笠原直使主與同族小杵、相爭国造(使主・小杵、皆名也)、經年難決也。小杵、性阻有逆、心高無順、密就求授於上毛野君小熊而謀殺使主。使主、覺之走出、詣京言狀。朝庭臨斷、以使主爲国造而誅小杵。国造使主、悚憙交懷、不能默已、謹爲国家奉置横渟・橘花・多氷・倉樔四處屯倉。是年也、太歲甲寅。

現代語訳

武蔵国造(ムサシノクニノミヤツコ)の笠原直使主(カサハラノアタイオミ)と同族の小杵(オキ)とが国造の役職を争いあって年を経たのですが決まりませんでした。
使主・小杵はどちらも名前です。

小杵は性格は激しく、逆らうことがありました。心は高慢で順(マツロウ=従う)ことはありませんでした。密かに行って、援軍を上毛野君小熊(カミツケノキミオクマ)に求めました。そうして使主を殺そうと謀りました。使主は悟って走って逃げました。京(ミヤコ)に詣でてその状況を言いました。朝廷は臨断(ツミサダメ=罪を裁く)して、使主を国造としました。小杵を誅殺しました。国造使主は畏まり、喜びは心に満ちて、黙っていられなくなりました。謹み、国家のために横渟(ヨコヌ=武蔵国横見郡=現在の埼玉県比企郡吉見村?)・橘花(タチバナ=武蔵国橘樹郡御宅郷=現在の神奈川県川崎市住吉・横浜市日吉付近?)・多氷(オオヒ)・倉樔(クラス=武蔵国久良郡?)の4箇所に屯倉を置いて奉りました。この年、太歲甲寅です。
スポンサードリンク

解説

物語の顛末とかなんとか
おそらく土地を献上することを条件に国造になったんでしょうね。うがったものの見方ですが、そこいらへんが妥当ではないかと。

ところで「使主(オミ)」というのが個人名ですよと書いてあるので個人名なんですが、「使主」という名前はこれまでにも散々出ていて、てっきり「役職名」だと思っていたんですよね。でも「名前ですよ」とわざわざ注釈してあるってことは名前なんでしょう。なんか変。
Pre<<<  >>>Next 
スポンサードリンク

SNSボタン

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

ページ一覧

スポンサードリンク

管理人リンク

編集