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舒明天皇(十二)摩理勢臣の慟哭
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是時、大夫等、且誨摩理勢臣之曰、不可違大兄王之命。於是、摩理勢臣、進無所歸、乃泣哭更還之居於家十餘日、泊瀬王忽發病薨。爰摩理勢臣曰、我生之誰恃矣。
現代語訳
この時、大夫等(マヘツキミタチ=臣下たち)は摩理勢臣(マリセノオオミ)に教えさとして言いました。
「大兄王(オオエノミコ=山背大兄王)の命令に逆らうべきではありません」
摩理勢臣は頼りにして帰るところがありませんでした。それで慟哭し泣き、さらに自宅に帰り、家に居ること十数日。泊瀬王はあっという間に病気になって亡くなりました。それで摩理勢臣は言いました。
「私は生きているが、誰を頼りにし仕えれば良いのか」
「大兄王(オオエノミコ=山背大兄王)の命令に逆らうべきではありません」
摩理勢臣は頼りにして帰るところがありませんでした。それで慟哭し泣き、さらに自宅に帰り、家に居ること十数日。泊瀬王はあっという間に病気になって亡くなりました。それで摩理勢臣は言いました。
「私は生きているが、誰を頼りにし仕えれば良いのか」
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解説
摩理勢臣は頼りにしていた泊瀬王・山背大兄王という聖徳太子の子供たちに実質的に見捨てられ、自宅に帰り泣いていました。そして次のページで大臣であり蘇我蝦夷に殺されてしまいます。
何度も書くようですが摩理勢臣は蘇我蝦夷から見ると叔父。父親の兄弟です。それをここまで追い詰めるのは権力闘争以外の何物でもないでしょう。ということは、蘇我氏の権力はかなり強いものだったということです。
何度も書くようですが摩理勢臣は蘇我蝦夷から見ると叔父。父親の兄弟です。それをここまで追い詰めるのは権力闘争以外の何物でもないでしょう。ということは、蘇我氏の権力はかなり強いものだったということです。
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舒明天皇(日本書紀)の表紙へ
- Page8 舒明天皇(八)泊瀬仲王の仲介
- Page9 舒明天皇(九)磯城嶋宮御宇天皇から現在まで
- Page10 舒明天皇(十)干支の義・境部摩理勢は斑鳩の泊瀬王のもとへ
- Page11 舒明天皇(十一)大臣の摩理勢への怒り・山背大兄王の説得
- Page12 舒明天皇(十二)摩理勢臣の慟哭
- Page13 舒明天皇(十三)境部摩理勢とその子供たちの死
- Page14 舒明天皇(十四)田村皇子の即位・田部連を屋久島に派遣
- Page15 舒明天皇(十五)皇后と子息・高麗と百済の朝貢
- Page16 舒明天皇(十六)犬上君三田耜と薬師恵日を大唐に派遣
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