舒明天皇(十三)境部摩理勢とその子供たちの死

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舒明天皇(十三)境部摩理勢とその子供たちの死

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原文

大臣、將殺境部臣而興兵遣之。境部臣聞軍至、率仲子阿椰、出于門坐胡床而待。時軍至、乃令來目物部伊區比以絞之、父子共死、乃埋同處。唯、兄子毛津、逃匿于尼寺瓦舍、卽姧一二尼。於是、一尼嫉妬令顯。圍寺將捕、乃出之入畝傍山。因以探山、毛津走無所入、刺頸而死山中。時人歌曰、

于泥備椰摩 虛多智于須家苔 多能彌介茂 氣菟能和區吳能 虛茂羅勢利祁牟

現代語訳

大臣(=蘇我蝦夷)は境部臣(サカイベノオミ=境部摩理勢)を殺そうとして兵を起こして派遣しました。境部臣は軍が到着すると聞いて、仲子(ナカチ=兄弟の中の子=次男)の阿椰(アヤ=人名)を率いて、門に出て胡座(アグラ)で座って待っていました。その時に、軍が到着して、来目物部伊区比(クメノモノノベイクイ)に命令して首を絞めさせました。父子ともに死にました。二人は同じところに埋めました。この兄にあたる毛津(ケツ)だけが尼寺の瓦舎(カワラヤ)に逃げ隠れました。すぐに一人、二人の尼を犯しました。一人の尼が嫉妬して表沙汰にしました。寺を軍が囲んで捉えようとしました。すると毛津は寺を出て、畝傍山(ウネビヤマ)に入りました。なので山を探りました。毛津が逃げても、入るところはありません。首を刺して山の中で死にました。その時代の人は歌を歌って言いました。
畝傍山 木立薄けど 頼みかも 毛津の若子の 籠らせりけむ
歌の訳畝傍山は木が少ないのに、それを頼りにして、毛津の若様は篭ったのだなぁ
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解説

ついに摩理勢vs蘇我蝦夷の叔父と甥の対決は終了。これで田村皇子が舒明天皇となり、やっとこさ空位が埋まります。

ところでここで歌が歌われています。これまでの日本書紀の歌というのは、「物語」と「歌謡」は別々に成立し、物語にあった歌を、記紀成立の際にはめ込んだのではないか?とされていましたが、この歌ばかりは、畝傍山の木が少ないということと、山背大兄王に味方が少ないことをかけている「歌」というよりは「川柳」に近い感覚で歌われた風刺歌です。この時代の事情が分かっていないと歌えない歌です。
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