スポンサードリンク
舒明天皇(十三)境部摩理勢とその子供たちの死
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket原文
大臣、將殺境部臣而興兵遣之。境部臣聞軍至、率仲子阿椰、出于門坐胡床而待。時軍至、乃令來目物部伊區比以絞之、父子共死、乃埋同處。唯、兄子毛津、逃匿于尼寺瓦舍、卽姧一二尼。於是、一尼嫉妬令顯。圍寺將捕、乃出之入畝傍山。因以探山、毛津走無所入、刺頸而死山中。時人歌曰、
于泥備椰摩 虛多智于須家苔 多能彌介茂 氣菟能和區吳能 虛茂羅勢利祁牟
于泥備椰摩 虛多智于須家苔 多能彌介茂 氣菟能和區吳能 虛茂羅勢利祁牟
現代語訳
大臣(=蘇我蝦夷)は境部臣(サカイベノオミ=境部摩理勢)を殺そうとして兵を起こして派遣しました。境部臣は軍が到着すると聞いて、仲子(ナカチ=兄弟の中の子=次男)の阿椰(アヤ=人名)を率いて、門に出て胡座(アグラ)で座って待っていました。その時に、軍が到着して、来目物部伊区比(クメノモノノベイクイ)に命令して首を絞めさせました。父子ともに死にました。二人は同じところに埋めました。この兄にあたる毛津(ケツ)だけが尼寺の瓦舎(カワラヤ)に逃げ隠れました。すぐに一人、二人の尼を犯しました。一人の尼が嫉妬して表沙汰にしました。寺を軍が囲んで捉えようとしました。すると毛津は寺を出て、畝傍山(ウネビヤマ)に入りました。なので山を探りました。毛津が逃げても、入るところはありません。首を刺して山の中で死にました。その時代の人は歌を歌って言いました。
畝傍山 木立薄けど 頼みかも 毛津の若子の 籠らせりけむ
畝傍山 木立薄けど 頼みかも 毛津の若子の 籠らせりけむ
歌の訳畝傍山は木が少ないのに、それを頼りにして、毛津の若様は篭ったのだなぁ
スポンサードリンク
解説
ついに摩理勢vs蘇我蝦夷の叔父と甥の対決は終了。これで田村皇子が舒明天皇となり、やっとこさ空位が埋まります。
ところでここで歌が歌われています。これまでの日本書紀の歌というのは、「物語」と「歌謡」は別々に成立し、物語にあった歌を、記紀成立の際にはめ込んだのではないか?とされていましたが、この歌ばかりは、畝傍山の木が少ないということと、山背大兄王に味方が少ないことをかけている「歌」というよりは「川柳」に近い感覚で歌われた風刺歌です。この時代の事情が分かっていないと歌えない歌です。
ところでここで歌が歌われています。これまでの日本書紀の歌というのは、「物語」と「歌謡」は別々に成立し、物語にあった歌を、記紀成立の際にはめ込んだのではないか?とされていましたが、この歌ばかりは、畝傍山の木が少ないということと、山背大兄王に味方が少ないことをかけている「歌」というよりは「川柳」に近い感覚で歌われた風刺歌です。この時代の事情が分かっていないと歌えない歌です。
スポンサードリンク
SNSボタン
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocketページ一覧
舒明天皇(日本書紀)の表紙へ
- Page9 舒明天皇(九)磯城嶋宮御宇天皇から現在まで
- Page10 舒明天皇(十)干支の義・境部摩理勢は斑鳩の泊瀬王のもとへ
- Page11 舒明天皇(十一)大臣の摩理勢への怒り・山背大兄王の説得
- Page12 舒明天皇(十二)摩理勢臣の慟哭
- Page13 舒明天皇(十三)境部摩理勢とその子供たちの死
- Page14 舒明天皇(十四)田村皇子の即位・田部連を屋久島に派遣
- Page15 舒明天皇(十五)皇后と子息・高麗と百済の朝貢
- Page16 舒明天皇(十六)犬上君三田耜と薬師恵日を大唐に派遣
- Page17 舒明天皇(十七)掖玖人の帰化・百済王義慈の王子の豊章を人質に
スポンサードリンク