スポンサードリンク
舒明天皇(十七)掖玖人の帰化・百済王義慈の王子の豊章を人質に
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket原文
三年春二月辛卯朔庚子、掖玖人歸化。三月庚申朔、百濟王義慈、入王子豊章爲質。秋九月丁巳朔乙亥、幸于津国有間温湯。冬十二月丙戌朔戊戌、天皇至自温湯。
現代語訳
即位3年春2月10日。掖玖人(ヤクノヒト=屋久島の人)が帰化しました。
3月1日。百済の王の義慈(ギジ)は王子の豊章(ホウショウ)を献上して人質としました。
秋9月19日。舒明天皇が津国の有間温湯(アリマノユ)に行きました。
冬12月13日。天皇は温湯(ユ)から帰りました。
3月1日。百済の王の義慈(ギジ)は王子の豊章(ホウショウ)を献上して人質としました。
秋9月19日。舒明天皇が津国の有間温湯(アリマノユ)に行きました。
冬12月13日。天皇は温湯(ユ)から帰りました。
解説
屋久島の人が帰化
この時代の屋久島の人は日本語では無かったでしょう。それが日本に帰化したことは、日本が屋久島から沖縄・台湾へとつながる交易ルートを手に入れたという意味であり、屋久島が大和朝廷に参加したということです。
では熊襲はどうなったのか?
義慈
百済の義慈王は西暦でいうと599年から660年にいて、641年から660年まで在位した百済の王です。三国史記にはその子の一人に「豊」とあり、日本書紀と一致します。この義慈が新羅との戦いに敗れ、百済は滅亡します。
そして人質として日本に居た「豊」が天智天皇から軍事援助を受けて百済の復興をかけて白村江の戦いへと進むことになります。このページは意外と大事なことが書いてあることになりますね。
この時代の屋久島の人は日本語では無かったでしょう。それが日本に帰化したことは、日本が屋久島から沖縄・台湾へとつながる交易ルートを手に入れたという意味であり、屋久島が大和朝廷に参加したということです。
では熊襲はどうなったのか?
義慈
百済の義慈王は西暦でいうと599年から660年にいて、641年から660年まで在位した百済の王です。三国史記にはその子の一人に「豊」とあり、日本書紀と一致します。この義慈が新羅との戦いに敗れ、百済は滅亡します。
そして人質として日本に居た「豊」が天智天皇から軍事援助を受けて百済の復興をかけて白村江の戦いへと進むことになります。このページは意外と大事なことが書いてあることになりますね。
スポンサードリンク
SNSボタン
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocketページ一覧
舒明天皇(日本書紀)の表紙へ
- Page13 舒明天皇(十三)境部摩理勢とその子供たちの死
- Page14 舒明天皇(十四)田村皇子の即位・田部連を屋久島に派遣
- Page15 舒明天皇(十五)皇后と子息・高麗と百済の朝貢
- Page16 舒明天皇(十六)犬上君三田耜と薬師恵日を大唐に派遣
- Page17 舒明天皇(十七)掖玖人の帰化・百済王義慈の王子の豊章を人質に
- Page18 舒明天皇(十八)高表仁の来日と歓待
- Page19 舒明天皇(十九)高表仁の帰国・彗星
- Page20 舒明天皇(二十)日蝕・大水・岡本宮の火災・大派王の注意
- Page21 舒明天皇(二十一)大きな流星と地雷と天狗
スポンサードリンク