斉明天皇(二十八)斉明天皇の殯を飛鳥の川原で行う

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斉明天皇(二十八)斉明天皇の殯を飛鳥の川原で行う

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原文

十一月壬辰朔戊戌、以天皇喪殯于飛鳥川原、自此發哀至于九日。(日本世記云「十一月、福信所獲唐人續守言等至于筑紫。」或本云「辛酉年、百濟佐平福信所獻唐俘一百六口、居于近江国墾田。」庚申年既云福信獻唐俘、故今存注、其決焉。)

現代語訳

(即位7年)11月7日。天皇の喪(ミモ=遺骸)を飛鳥の川原で殯(モガリ=遺体の仮安置)しました。これから9日まで発哀(=死者を弔うために鳴き声を上げる儀式)を行いました。
日本世記(ニホンセイキ)によると、11月に福信(フクシン=鬼室福信)が得た唐人の続守言(ゾクシュゲン)たちが筑紫に到着したと言います。

ある本によると辛酉年(661年)に百済の佐平(佐平=百済の役人の官位)の福信が献上した唐人の虜囚106人。近江国の墾田(ハリタ)に居らせたといいます。庚申年(660年)に既に福信は唐の虜囚を献上したと言っている。それで今、注釈を書いておいた。(どちらが正しいか)それを決めなさい。
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解説

斉明天皇はこれで終了。
これからは斉明天皇の子供たちである天智天皇と天武天皇の物語へと移ります。
唐人の捕虜
鬼室福信が唐人の捕虜を献上したという話は以下のページに既にあります。重複しているので注釈で、どっちが本当が調べないとね、とあります。

「日本世記」は「660年に献上した」とあって、それは既に書かれています。それが「ある本」では「661年に献上があって近江に住まわせた」とあるのですが、「661年に唐人の虜囚を近江の墾田に住まわせた(献上は660年)」という記事だと考えると矛盾しない。もしかして「編集者の検討課題」だったんじゃないかと思います。
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