斉明天皇(二十三)鬼室福信は日本に豊璋を求める

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斉明天皇(二十三)鬼室福信は日本に豊璋を求める

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原文

冬十月、百濟佐平鬼室福信、遣佐平貴智等、來獻唐俘一百餘人、今美濃国不破・片縣二郡唐人等也。又乞師請救、幷乞王子余豊璋曰(或本云、佐平貴智・達率正珍也)「唐人率我蝥賊、來蕩搖我疆埸、覆我社稷、俘我君臣。百濟王義慈・其妻恩古・其子隆等・其臣佐平千福・国辨成・孫登等凡五十餘、秋於七月十三日、爲蘇將軍所捉而送去於唐国。蓋是、無故持兵之徵乎。而百濟国遙頼天皇護念、更鳩集以成邦。方今謹願、迎百濟国遣侍天朝王子豊璋、將爲国主。」云々。詔曰「乞師請救聞之古昔、扶危繼絶著自恆典。百濟国窮來歸我、以本邦喪亂靡依靡告。枕戈嘗膽、必存拯救。遠來表啓、志有難奪。可分命將軍百道倶前、雲會雷動倶集沙㖨、翦其鯨鯢紓彼倒懸。宜有司具爲與之、以禮發遣。」云々。送王子豊璋及妻子與其叔父忠勝等、其正發遣之時見于七年。或本云、天皇、立豊璋爲王・立塞上爲輔、而以禮發遣焉。
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現代語訳

(即位6年)冬10月。百済の佐平(サヘイ=官位の名前)の鬼室福信(キシツフクシン)、は佐平の貴智(キチ)たちを派遣して、日本に来て、唐の虜囚100人余りを献上しました。今、美濃国の不破(フワ)・方県(カタアガタ)の2つの郡の唐人(モロコシビト)たちです。また、師団を乞い願い、救いを請いました。合わせて、王子の余豊璋(ヨホウショウ=百済の王子で日本に人質になっていた)を乞うて、言いました。
ある本によると佐平の貴智と達率(ダチソチ=官位の名前)の正珍(ショウチン)です。

「唐人は蝥賊(アシキアタ=悪い敵)を率いて、来て、われらの国境を蕩搖(タダヨウ=ゆり動かす)して、我が国を転覆させ、われらの君主・臣下を虜囚にしました。
百済の王の儀慈(ギジ)、その妻の恩古(オンコ)、その子の隆(リュウ)、佐平の千福(センフク)・国弁成(コクベンジョウ)・孫登(ソントウ)など、全部で50人余り。秋7月13日に蘇将軍(ソ=蘇定方のこと)に捕らえられて、唐国に送られ去りました。もしかして、これは理由もなく兵(ツワモノ=兵器)を持つ兆候か。

百済国は、遥かな天皇の護念(ミメグミ)に頼って、求め集めて国を成しました。今、慎み、願うのは、百済国の、天朝(ミカド)に派遣して仕えている王子の豊璋を迎えて、国の主としようということです」
云々。
詔(ミコトノリ)して言いました。
「師団を乞い、救援を請願することは、古昔(イニシエ)に聞いた、危機を助け、絶えた国を継承するのは、恒久的な典(ノリ=自然な摂理)に顕著です。百済国は窮乏して、それで日本に来て、我に頼るのは、本邦(ホトノクニ=本国)が滅び、乱れて、頼るところ無く、言いようも無い。戈(ホコ=槍)を枕にして、胆を嘗める(=国と戦争のことを気にかけるという表現)。必ず救えと、遠くから来て、言った。志を奪うことは難しい。将軍に分けて銘じて、百道(モモノミチ)から共に進め。雲のように会い、雷(イカヅチ)のように動いて、共に沙㖨(サタク=朝鮮の地域)に集まれば、その鯨鯢(アタ=敵)を斬り、その差し迫った困難を緩めなさい。有司(ツカサ=役人)を細かく、与えて、礼を持って出発し派遣しなさい」
と云々。
王子の豊璋とその妻子と、その叔父の忠勝(チュウショウ)たちを送りました。その出発し派遣されたのは即位7年に見えます。
ある本によると、天皇は豊璋を王として、塞上(サイジョウ=豊璋の弟)を輔(タスケ)として、礼を持って出発し派遣しました。
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