皇極天皇(二)蝦夷を大臣に・入鹿の勢い・朝鮮半島の事情

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皇極天皇(二)蝦夷を大臣に・入鹿の勢い・朝鮮半島の事情

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原文

元年春正月丁巳朔辛未、皇后卽天皇位。以蘇我臣蝦夷爲大臣如故。大臣兒入鹿更名鞍作。自執国政。威勝於父。由是、盜賊恐懾、路不拾遺。乙酉、百濟使人大仁阿曇連比羅夫、從筑紫国、乘驛馬來言、百濟国、聞天皇崩、奉遣弔使。臣隨弔使、共到筑紫。而臣望仕於葬。故先獨來也。然其国者、今大亂矣。

二月丁亥朔戊子、遣阿曇山背連比良夫・草壁吉士磐金・倭漢書直縣、遣百濟弔使所、問彼消息。弔使報言、百濟国主謂臣言、塞上恆作惡之。請付還使、天朝不許。百濟弔使傔人等言、去年十一月、大佐平智積卒。又百濟使人、擲崐崘使於海裏。今年正月、国主母薨。又弟王子兒翹岐及其母妹女子四人、內佐平岐味、有高名之人卌餘、被放於嶋。壬辰、高麗使人、泊難波津。丁未、遣諸大夫於難波郡、檢高麗国所貢金銀等、幷其獻物。使人貢獻既訖、而諮云、去年六月、弟王子薨。秋九月、大臣伊梨柯須彌弑大王、幷殺伊梨渠世斯等百八十餘人。仍以弟王子兒爲王。以己同姓都須流金流爲大臣。戊申、饗高麗・百濟於難波郡。詔大臣曰、以津守連大海可使於高麗。以国勝吉士水鶏可使於百濟。(水鶏、此云倶毗那)。以草壁吉士眞跡可使於新羅。以坂本吉士長兄可使於任那。庚戌、召翹岐、安置於安曇山背連家。辛亥、饗高麗・百濟客。癸丑、高麗使人・百濟使人、並罷歸。
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現代語訳

即位1年春1月15日。皇后は天皇に即位しました。蘇我臣蝦夷(ソガノオミエミシ)を大臣とするのは、以前と同じです。大臣の子の入鹿(イルカ)…
又の名を鞍作(クラツクリ)と言います。

自ら国の執政を行い、その勢いは父の蝦夷よりも勝っていました。それで盗賊は恐れて、道に落ちているものも取りませんでした。

1月29日。百済に送った使者の大仁(ダイニン)の阿曇連比羅夫(アズミノムラジヒラブ)は筑紫国から駅馬(ハイマ)に乗って来て言いました。
「百済国は天皇が崩御したと聞いて、弔いの使者を派遣しました。私めはその弔の使者に随伴して、筑紫に到着しました。しかし、私めは葬式にお仕えしたいと切望しています。よって先に独りで参上しました。かの国は多いに乱れています」

2月2日。阿曇山背連比良夫(アズミノヤマシロノムラジヒラブ)・草壁吉士磐金(クサカベノキシイワカネ)・倭漢書直県(ヤマトノアヤノフミノアタイアガタ)を百済の弔の使者のもとに派遣して、その消息(アルカタチ)を問わせました。弔の使者は報告して言いました。
「百済国の主(コキシ)はわたしめに語って言いました。
『塞上(サイジョウ=人物名=百済王の子で豊璋の弟)は常に悪いことをする。帰還する使者に随伴させて帰国させたいと請願しても天朝(スメラミコト=天皇・朝廷)は許さないだろう』
と言いました」
百済の弔の使者の傔人(トモビト=従者)たちは言いました。
「去年の11月に、大佐平(ダイサヘイ=官位の名前)の智積(チシャク)が帰った(?) また百済の使者が崐崘(コンロン=ベトナム・カンボジア・タイ・ビルマなどの地域ではないか?)の使者を海裏(ウミ)に投げ入れました。
今年の1月に国(=百済)の主の母が亡くなりました。また弟王子の兒翹岐(コゲウキ)とその母や妹の女性4人、内佐平(ナイサヘイ=官位の名前)の岐味(キミ)と、高名な人間が四十数人が島に放たれました」
6日。高麗の使者が難波津(ナニワツ)に宿泊しました。
21日。諸々の大夫(マヘツキミタチ=臣下たち)を難波郡(ナニワノコオリ)に派遣して、高麗国の献上した金銀など、合わせて献上したものを検(カムガエ=チェックすること)しました。使者は献上が終わり、申し上げて言いました。
「去年の6月。弟王子は亡くなりました。秋9月。大臣の伊梨柯須弥(イリカスミ)は大王(コキシム)を殺し、合わせて伊梨渠世斯(イリコセシ)などを百八十数人を殺しました。それで弟王子の子を王(コキシ)としました。私の同姓(ウガラ)の都須流金流(ツスルコムル)を大臣としました」
22日。高麗・百済の客人と難波郡で宴会しました。大臣は詔(ミコトノリ)して言いました。
「津守連大海(ツモリノムラジオオアマ)を高麗に使者として送ろう。国勝吉士水鶏(クニカツノキシクイナ)を百済に使者として送ろう。
水鶏は倶毗那(クイナ)と言います。

草壁吉士眞跡(クサカベノキシマト)を新羅に使者として送ろう。坂本吉士長兄(サカモトノキシナガエ)を任那に使者として送ろう」
24日。翹岐(ゲウキ)を呼び寄せて、安曇山背連(アズミノヤマシロノムラジ)の家に居らせました。
25日。高麗・百済の客人と宴会をしました。
27日。高麗の使者・百済の使者は、一緒に帰りました。
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解説

入鹿の威勢
蝦夷と入鹿は中大兄皇子に殺されてしまうので、悪役という印象があるのですが、「入鹿が政治を行って、盗賊すら道の遺失物を盗まない」となると、蘇我親子の政治は評価が高かったということになります。
崑崙の使者を海に投げ入れ、殺す。
殺したとまでは書いてありませんが、そういうことでしょう。
コンロンというのは少なくとも朝鮮や中国ではありません。東南アジアの使者です。彼らがどうやって日本まで来たか? そりゃ台湾・沖縄というルートでしょう。推古天皇以降、屋久島の人間がどんどんとヤマトに来ていますから、沖縄・台湾を通じた東南アジアに通じる交易ルートが開拓されたのでしょう。

すると朝鮮半島の意義はかなり薄くなってしまいます。面倒な朝鮮より東南アジアを通じて文化の輸入や交易をした方が良い。となると朝鮮はないがしろにされるでしょう。百済の使者がコンロンの使者を海に投げ入れたのは、そういう事情があってのことだと思われます。
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