皇極天皇(四)依網屯倉の射猟・百済と新羅の風俗は慈愛がない

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皇極天皇(四)依網屯倉の射猟・百済と新羅の風俗は慈愛がない

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原文

五月乙卯朔己未、於河內国依網屯倉前、召翹岐等、令觀射獵。庚午、百濟国調使船與吉士船、倶泊于難波津。蓋吉士前奉使於百濟乎。壬申、百濟使人進調。吉士服命。乙亥、翹岐從者一人死去。丙子、翹岐兒死去。是時、翹岐與妻、畏忌兒死、果不臨喪。凡百濟・新羅風俗、有死亡者、雖父母兄弟夫婦姉妹、永不自看。以此而觀、無慈之甚、豈別禽獸。丁丑、熟稻始見。戊寅、翹岐將其妻子、移於百濟大井家。乃遣人葬兒於石川。六月乙酉朔庚子、微雨。是月、大旱。

現代語訳

(即位1年)5月5日。河内国の依網屯倉(ヨサノミヤケ=大阪市東住吉区・大阪府松原氏三宅など)の前で翹岐(ゲウキ=百済王の王子)たちを呼び寄せて、射猟(ウマユミ)を見せました。
16日。百済国の調(ミツキ=税)の使者の船と吉士(キシ)の船がともに難波津(ナニワツ)に停泊しました。
おそらくは吉士は先に使者を百済に奉じたのではないか

18日。百済の使者の調(ミツキ)を献上しました。吉士は報告をしました。
21日。翹岐の従者の一人が死にました。
22日。翹岐の子が死去しました。この時、翹岐と妻が子が死んだことで、恐ろしくなり、忌まわしく思い、結果、葬式にのぞみませんでした。百済・新羅の風俗では死亡者がある時、父母兄弟夫婦姉妹と言っても、自ら看護することはない。これを見ると、慈愛が無くて酷く、ケダモノと変わりないではないかと。
23日。熟した稲が見られ始めた。
24日。翹岐はその妻と子を連れて、百済の大井(オオイ=現在の大阪市河内長野市太井)に移りました。人を派遣して死んだ子を石川に葬らせました。
6月16日。小雨が降りました。この月、大いに日照りました。
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解説

百済と新羅の風俗
百済と新羅では、死亡者を家族であっても看取らない。とある。それを慈愛が無く、ケダモノと変わりゃしないと批判的に書いてある。よく日本書紀は新羅を悪く書いていると指摘があるが、百済も批判的に書いてあることがあるし、新羅のことをもただ批判するだけではないので、なんとも。

百済と新羅の風俗については、ハッキリとは分からない。仮にこの風俗が本当だとすると、「儒教的」ではない。儒教は家族の繋がりを非常に大事にする思想だから、この風俗は考えにくい。と言っても、日本書紀が嘘というのも無理がある。嘘ならもっと大袈裟で、しっかりと批判するだろう。

百済と新羅には、記述のない、独自の風俗や世界観が本来はあったんだろうと思う。しかし、後々に儒教に毒されて、そう言った習俗を否定され、記述されることがなかったのでしょう。その欠片が日本書紀に残った、というのが本当だと思います。

ところで死者を嫌うのはどちらかというと「日本の穢れ」という考えに近いような。
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