斉明天皇(二十五)大伯皇女の誕生・福信は糺解を求める

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斉明天皇(二十五)大伯皇女の誕生・福信は糺解を求める

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原文

七年春正月丁酉朔壬寅、御船西征始就于海路。甲辰、御船到于大伯海。時、大田姫皇女産女焉、仍名是女曰大伯皇女。庚戌、御船泊于伊豫熟田津石湯行宮。(熟田津、此云儞枳拕豆。)三月丙申朔庚申、御船還至于娜大津、居于磐瀬行宮。天皇、改此名曰長津。

夏四月、百濟福信遣使上表、乞迎其王子糺解。(釋道顯日本世記曰、百濟福信獻書、祈其君糺解於東朝。或本云、四月天皇遷居于朝倉宮。)

現代語訳

即位7年。春1月6日。御船(ミフネ)は初めて海路(ウミツミチ)に就航しました。
1月8日。御船は大伯海(オオクノウミ=岡山県邑久郡の海・小豆島の北)に到着しました。その時に大田姫皇女(オオタノヒメミコ)が女の子を産みました。それでこの女の子を名付けて、大伯皇女と言います。
1月14日。御船は伊予の熟田津(ニキタツ=愛媛県松山市古三津町か、松山市和気町・堀江町か)の石湯行宮(イワユノカリミヤ=道後温泉)に到着しました。
熟田津は儞枳拕豆(ニキタツ)と言います。

3月25日。御船は本来の航路に戻って、娜大津(ナノオオツ=博多)に到着しました。磐瀬行宮(イワセノカリミヤ)に居ました。天皇はこれを改めて、名を長津(ナガツ)としました。

夏4月。百済の福信(フクシン=鬼室福信)が使者を派遣して表(フミ)を献上して、その王子の糺解(クゲ=余豊璋という説も?)を迎えたいと乞いました。
道顯(ドウケン)の日本世記(ニホンセイキ)によると、百済の福信は書を献上して、その君主の糺解(クゲ)を東朝(ミカド=大和朝廷のこと)に祈ったといいます。ある本によると、4月に天皇は朝倉宮(=福岡県朝倉郡朝倉町山田かその付近)に移って居たといいます。
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解説

大田姫皇女
天智天皇、つまり中大兄皇子の娘。夫は天武天皇。天智天皇と天武天皇は兄と弟だから、天武天皇と大田姫皇女は伯父と姪の関係になります。なかなかエグイ。ここで生まれた大伯皇女は当然、天武天皇の娘。

天智天皇の子の大友皇子と天武天皇は、壬申の乱で殺し合いを演ずる関係ですから、天智天皇と天武天皇というと「不仲」な印象がありますが、この時点では、そういう兆候はありません。
糺解
糺解が豊璋と同一人物であるという説があります。
すでに鬼室福信が豊璋を求めたから、百済に送ったという記述があります。

ただし注釈で「斉明天皇即位7年に豊璋を送った記事があるよ」と書いてあるから、このページの記述を考慮して、「糺解=豊璋」だろうと、なるのですが、うーん。そもそも記載はなくても百済の人質は実際にはもっと多かったんだと思います。だから百済の王子が複数いても不思議じゃない。よって糺解は豊璋とは別の王子だったと考えた方が自然だと思いますね。

というか、「百済の王子の人質は少ない」という考えは、「朝鮮半島は発展していた」なのに「日本の属国」という矛盾した無茶苦茶な設定があるからなのですよ。私は「朝鮮半島は発展していない」「百済は(単純な意味での)属国ではない」と主張します。

朝鮮は発展していなくて、日本にとって百済は稲作が出来ないから魅力的ではない土地だった。だけど、東北異民族を含めた中国との貿易には魅力があった。百済が日本に王子を送ったのは、人質という側面は多少はあったでしょうが、主な目的な「留学」だったのでしょう。だから、従者もたくさん連れてくるし、大和朝廷との関係も悪くなかった。朝廷が意見を求めれば、進言するくらいの関係ですからね。

百済の王子は複数いて、そのうち豊璋を求めた。その次に糺解も求めたのは単純に人材不足じゃないかと思いますね。
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