天智天皇(二十一)高麗の調・大水・百済の移民の処置・指南車

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天智天皇(二十一)高麗の調・大水・百済の移民の処置・指南車

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原文

五年春正月戊辰朔戊寅、高麗遣前部能婁等進調。是日、耽羅遣王子姑如等貢獻。三月、皇太子親往於佐伯子麻呂連家、問其所患、慨歎元從之功。夏六月乙未朔戊戌、高麗前部能婁等罷歸。秋七月、大水。是秋、復租調。冬十月甲午朔己未、高麗遣臣乙相奄等等進調。大使臣乙相奄鄒等進調。(大使臣乙相奄鄒・副使達相遁・二位玄武若光等。)是冬、京都之鼠、向近江移。以百濟男女二千餘人、居于東国。凡不擇緇素、起癸亥年至于三歲、並賜官食。倭漢沙門智由、獻指南車。

現代語訳

即位5年春1月11日。高麗は前部能婁(ゼンホウノウル)たちを派遣して調(ミツキ)を献上しました。この日に耽羅(タムラ=済州島)は王子の姑如(コニョ)たちを派遣して貢(ミツキ)を献上しました。

3月。皇太子は自ら佐伯子麻呂連(サエキノコマロノムラジ)の家に行き、その病状を問いました。昔から支え、従う功績を思い、嘆き悲しみました。

夏6月4日。高麗の前部能婁(ゼンホウノウル)たちは帰りました。
秋7月に大水(オオミズ=洪水)がありました。この秋に租調(タチカラミツキ=租税)を許しました。

冬10月26日。高麗の臣の乙相奄鄒(オツソウアンス)たちを派遣して、調(ミツキ)を献上しました。
大使は乙相奄鄒(オツソウアンス)・副使の達相遁(ダチソウドン)・二位の玄武若光(ゲンムニャクコウ)など。

この冬に京都(ミヤコ)の鼠(ネズミ)は近江に向かっていき、移りました。百済の男女2000人余りを東国に居らせました。緇素(ホウシロシロキヌ=黒衣と白衣=出家者と在家)の区別なく、癸亥年(663年)から3年、皆、官(オオヤケ)の食料を与えられた。倭漢沙門智由(ヤマトノアヤノホウシチユ)は指南車(シナンノクルマ=常に南を指す機械)を献上しました。
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解説

皇太子?
この皇太子は誰の子を指しているのか。
天智天皇は既に即位しているということになっていますが、皇太子のままで実務を取るという形式を取っています。よってここでの皇太子は「中大兄皇子」であり「天智天皇」のことです。
指南車について
天皇とか皇帝というのは、北を背にして、南に向いて政治を行うものです(天子南面)。だから「どっちが南か?」ってのは大事なことでした。指南車については斉明天皇の時代に既に既出で、そこでも「沙門(ホウシ)の智踰(チユ)」なる人物が出ています。おそらく倭漢沙門智由(ヤマトノアヤノホウシチユ)と同一人物で、作り始めたのが斉明天皇時代で、献上したのが天智天皇ということでしょう。
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