天智天皇(十九)間人大后の死・鬼室集斯を小錦下に

MENU
TOP>天智天皇(日本書紀)>天智天皇(十九)間人大后の死・鬼室集斯を小錦下に
スポンサードリンク

天智天皇(十九)間人大后の死・鬼室集斯を小錦下に

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

原文

四年春二月癸酉朔丁酉、間人大后薨。是月、勘校百濟国官位階級、仍以佐平福信之功、授鬼室集斯小錦下。(其本位達率。)復、以百濟百姓男女四百餘人、居于近江国神前郡。三月癸卯朔、爲間人大后、度三百卅人。是月、給神前郡百濟人田。

現代語訳

即位4年春2月25日。間人大后(ハシヒトノオオキサキ=間人皇女=孝徳天皇の后で、天智天皇の妹)が亡くなりました。

この月に百済国の官位の階級を調べ、検討しました。なお、佐平(サヘイ)の福信(フクシン=鬼室福信)の功績を持って、鬼室集斯(キシツシュウシ=福信の子?)に小錦下(ショウキンゲ)の位を授けました。
その元の位は達率(ダチソチ)です。

また、百済の百姓(タミ)男女400人余りを近江国の神前郡(カムサキノコオリ=滋賀県東南部)に置きました。

3月1日。間人大后のために330人が出家しました。

この月に神前郡の百済人に田を与えました。
Pre<<<  >>>Next 
スポンサードリンク

SNSボタン

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

ページ一覧

スポンサードリンク

管理人リンク

編集