スポンサードリンク
天智天皇(二十)長門と筑紫に城・劉徳高の来日
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket原文
秋八月、遣達率答㶱春初、築城於長門国。遣達率憶禮福留・達率四比福夫、於筑紫国築大野及椽二城。耽羅遣使來朝。九月庚午朔壬辰、唐国遣朝散大夫沂州司馬上柱国劉德高等。(等謂、右戎衞郎將上柱国百濟禰軍・朝散大夫柱国郭務悰、凡二百五十四人。七月廿八日至于對馬、九月廿日至于筑紫、廿二日進表函焉。)冬十月己亥朔己酉、大閲于菟道。十一月己巳朔辛巳、饗賜劉德高等。十二月戊戌朔辛亥、賜物於劉德高等。是月、劉德高等罷歸。是歲、遣小錦守君大石等於大唐、云々。(等謂、小山坂合部連石積・大乙吉士岐彌・吉士針間。蓋送唐使人乎。)
スポンサードリンク
現代語訳
(即位4年)秋8月。達率(ダチソチ)の答㶱春初(トウホンシュンソ)を派遣して、城を長門国に築かせました。達率(ダチソチ)の憶礼福留(オクライフクル)・達率の四比福夫(シヒフクブ)を筑紫国へ派遣して、大野と椽(キ)の二つの城を築かせました。耽羅(タムラ=済州島)は使者を派遣して来朝しました。
9月23日。唐国(モロコシ)は、朝散大夫(チョウサンダイブ)の沂州(キシュウ)の司馬上柱国の劉徳高(リュウトクコウ)等を派遣しました。
冬10月11日。菟道(ウジ=現在の京都府宇治市)で大規模な検閲をしました。
11月13日。劉徳高(リュウトクコウ)たちと宴会をしました。
12月14日。品物を劉德高たちに与えました。
この月に劉德高は帰りました。
この年、小錦守君大石(ショウキンモリノキミオオイワ)等を大唐に派遣した。云々。
9月23日。唐国(モロコシ)は、朝散大夫(チョウサンダイブ)の沂州(キシュウ)の司馬上柱国の劉徳高(リュウトクコウ)等を派遣しました。
「等」というのは右戎衞郎将上柱国(セキジュウエイロウショウジョウチュウコク)の百濟禰軍(クダラノネグン)・朝散大夫柱国(チョウサンダイブチュウコク)の郭務悰(カクムソウ)のことを言います。
すべてで254人。7月28日に対馬に到着しました。9月20日に筑紫に到着しました。9月22日に表函(フミヒツ)を奉りました。
すべてで254人。7月28日に対馬に到着しました。9月20日に筑紫に到着しました。9月22日に表函(フミヒツ)を奉りました。
冬10月11日。菟道(ウジ=現在の京都府宇治市)で大規模な検閲をしました。
11月13日。劉徳高(リュウトクコウ)たちと宴会をしました。
12月14日。品物を劉德高たちに与えました。
この月に劉德高は帰りました。
この年、小錦守君大石(ショウキンモリノキミオオイワ)等を大唐に派遣した。云々。
等というのは小山(ショウセン)の坂合部連石積(サカイベノムラジイワツミ)・大乙(ダイオツ)の吉士岐弥(キシノキミ)・吉士針間(キシノハリマ)を言います。唐の使者を送迎したのかもしれない。
スポンサードリンク
解説
日本は唐からの侵略を恐れてか、百済の亡命者に「城」を作らせています。
ところで。
日本では都を作っても、そこには城塞がありません。これは日本と中国朝鮮の世界観に違いがあるからだと思われます。日本では氏族や天皇は実質、神に近い存在です。神ではないですが、神に直接、権力を授けられています。ただし「ただそれだけ」です。基本的には土地や民は王(氏族や天皇)のものではありません。ではどうやって王は支配しているのかというと「神」です。日本では神のおかげで穀物ができたり、様々な加護があるので、「税金の根拠」が「神」です。だから朝廷が、例えば、蚕の儀式をすると、絹や養蚕の税金をかけられるようになります。天皇の言葉を「ミコトノリ」と崇めるのも、根本は、天皇と皇后が、神を下ろして神の宣託を受けて言葉を発していると前提があるからです。
それに対して、儒教国である中国や朝鮮は、トップである王や皇帝が、「天」に任命されて、この世界の全てを「授けられて」います。つまり、領地の土地も民も全て王や皇帝の「所有物」です。土地も民も王のものだから、税金を徴収するのが当たり前ということです。
大した違いはない?と思いますか?
全然違うんですよ。
日本では仮にその土地を戦争で奪ったとしても、民は殺しません。なにせ、民から税を徴収するのは「神が根拠」だから、新しい王が神を奉じれば、税金は徴収できるんです。しかし、儒教の世界観では、前の民は基本的に皆殺しになります。前の王の「所有物」だからです。だから、儒教の国は、兵と民が必死になって国を守ります。敗北とは即、死なのですからね。それで儒教国では、高い城壁を作ります。当然ですよね。ところが、日本はそういう城壁を作らない。日本では戦争というのは、戦争をする人たちがやりあうものであって、関係ない人は関係ない。まぁ、兵は民から徴収するのですよ。ただ、将軍が死んだら、将軍の意志を継いで戦うことは無いんですよ。そんなだから城壁には意味が無い。よって作らない。
そんな日本が「城」を作った。
日本の古来の世界観では不要なものです。やはり、唐が攻めてくると仮定したものでしょうか。でも、天智天皇は儒教を信奉している人物ですから、儒教化の一つに「城」があったのかもしれません。
ところで。
日本では都を作っても、そこには城塞がありません。これは日本と中国朝鮮の世界観に違いがあるからだと思われます。日本では氏族や天皇は実質、神に近い存在です。神ではないですが、神に直接、権力を授けられています。ただし「ただそれだけ」です。基本的には土地や民は王(氏族や天皇)のものではありません。ではどうやって王は支配しているのかというと「神」です。日本では神のおかげで穀物ができたり、様々な加護があるので、「税金の根拠」が「神」です。だから朝廷が、例えば、蚕の儀式をすると、絹や養蚕の税金をかけられるようになります。天皇の言葉を「ミコトノリ」と崇めるのも、根本は、天皇と皇后が、神を下ろして神の宣託を受けて言葉を発していると前提があるからです。
それに対して、儒教国である中国や朝鮮は、トップである王や皇帝が、「天」に任命されて、この世界の全てを「授けられて」います。つまり、領地の土地も民も全て王や皇帝の「所有物」です。土地も民も王のものだから、税金を徴収するのが当たり前ということです。
大した違いはない?と思いますか?
全然違うんですよ。
日本では仮にその土地を戦争で奪ったとしても、民は殺しません。なにせ、民から税を徴収するのは「神が根拠」だから、新しい王が神を奉じれば、税金は徴収できるんです。しかし、儒教の世界観では、前の民は基本的に皆殺しになります。前の王の「所有物」だからです。だから、儒教の国は、兵と民が必死になって国を守ります。敗北とは即、死なのですからね。それで儒教国では、高い城壁を作ります。当然ですよね。ところが、日本はそういう城壁を作らない。日本では戦争というのは、戦争をする人たちがやりあうものであって、関係ない人は関係ない。まぁ、兵は民から徴収するのですよ。ただ、将軍が死んだら、将軍の意志を継いで戦うことは無いんですよ。そんなだから城壁には意味が無い。よって作らない。
そんな日本が「城」を作った。
日本の古来の世界観では不要なものです。やはり、唐が攻めてくると仮定したものでしょうか。でも、天智天皇は儒教を信奉している人物ですから、儒教化の一つに「城」があったのかもしれません。
スポンサードリンク
SNSボタン
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocketページ一覧
天智天皇(日本書紀)の表紙へ
- Page16 天智天皇(十六)百済王の善光王は難波に・劉仁願と郭務悰の来日
- Page17 天智天皇(十七)郭務悰を追い返す・高麗の蓋金の遺言
- Page18 天智天皇(十八)小竹田史身と磐城村主殷
- Page19 天智天皇(十九)間人大后の死・鬼室集斯を小錦下に
- Page20 天智天皇(二十)長門と筑紫に城・劉徳高の来日
- Page21 天智天皇(二十一)高麗の調・大水・百済の移民の処置・指南車
- Page22 天智天皇(二十二)斉明天皇と間人皇女を小市岡上陵に合葬
- Page23 天智天皇(二十三)近江への遷都・童謡と失火
- Page24 天智天皇(二十四)耽羅の貢・高麗の男生が大唐へ
スポンサードリンク