天武天皇(二十八)事代主神と生霊神と村屋神の神託

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天武天皇(二十八)事代主神と生霊神と村屋神の神託

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原文

先是、軍金綱井之時、高市郡大領高市縣主許梅、儵忽口閉而不能言也。三日之後、方着神以言「吾者高市社所居、名事代主神。又身狹社所居、名生靈神者也。」乃顯之曰「於神日本磐余天皇之陵、奉馬及種々兵器。」便亦言「吾者立皇御孫命之前後、以送奉于不破而還焉。今且立官軍中而守護之。」且言「自西道軍衆將至之、宜愼也。」言訖則醒矣。故、是以、便遣許梅而祭拜御陵、因以奉馬及兵器、又捧幣而禮祭高市・身狹二社之神。然後、壹伎史韓国、自大坂來。故時人曰、二社神所教之辭適是也。又村屋神着祝曰「今自吾社中道、軍衆將至。故宜塞社中道。」故未經幾日、廬井造鯨軍、自中道至。時人曰、卽神所教之辭是也。軍政既訖、將軍等舉是三神教言而奏之。卽勅登進三神之品以祠焉。
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現代語訳

これより以前の話です。金綱井(カナヅナノイ)で軍を起こした時、高市郡大領(タケチノコオリノコオチノミヤツコ)の高市県主許梅(タケチノアガタヌシコメ)は突然、口を閉じて、何も言えなくなりました。三日後、神掛かって言いました。
「吾は高市社(タケチノヤシロ)に居る、名は事代主神だ。また、身狭社(ムサノヤシロ)に居る、名は生霊神(イクミタマノカミ)です」
そして顕(アラコト=神意を明らかにすること)して言いました。
「神日本磐余天皇(カムヤマトイワレビコノスメラミコト)の陵(ミサザキ=墓)に馬と種々の兵器を奉れ」
また言いました。
「吾は皇御孫命(スメミマノミコト天皇のこと)の前後に立ち、不破(野上の仮の宮)に送り、帰った。今もまた、官軍の中に立って、守護している」
また言いました。
「西道(ニシノミチ)から軍衆(イクサビトドモ)が到着しようとしている。慎重になりなさい」
言い終わって、目が覚めました。そのことから、すぐに許梅(コメ)を派遣して、御陵(ミサザキ=墓)を祭り拝ませて、馬と兵器を奉った。また幣(ミテグラ=神への捧げ物)を捧げて、高市(タケチ)・身狭(ムサ)の2つの社(ヤシロ)の神に礼を払って祭りました。そうして後に、壱岐史韓国(イキノフビトカラクニ)が大坂(オオサカ)から来ました。その時代の人は言いました。
「2社の神が教えた言葉は、まさにこのことだ」
また、村屋神(ムラヤノカミ)は祝(ホフリ=神社の神官)に神がかって言いました。
「今、吾が社の中道(ナカノミチ)から、軍衆(イクサビトドモ=兵士)が到着する。社の中道を塞ぐべし」
それから何日も経たないうちに廬井造鯨(イオイノミヤツコクジラ)の軍隊が中道へと来ました。その時代の人は言いました。
「神が教えた言葉は、まさにこれだ」
軍の行動が全て終わってから、将軍たちはこの3柱の神が教えたことを天皇に申し上げました。すぐに勅(ミコトノリ)して、この3柱の神に品物を差し上げ、祭りました。
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解説

関係者が「こう言う神の神託があって、うまくいきました」という報告が、戦争が終わってからあったんでしょうね。それでその神にお礼をした。

鎌倉時代の終わりに元寇がありました。昔は神風に吹かれてモンゴル軍が全滅したということになっていましたが、どうやらモンゴル軍は日本に上陸してから、敗走を重ねて、最終的な止めが「神風」だった、ということが分かっています。この元寇の後に、あちこちの寺社が「うちの仏様がモンゴル軍を追い払った」「うちの神様が守護したんですよ」と主張し始めて、そこにも褒美をやらないくちゃいけないことになりました。そこにも鎌倉幕府の崩壊の一因があったと言われています。

神様とか仏様ってのは、実在しないわけで、この「神託があった」というのは、まぁ「んなわけない」のです。いくら古代だって言っても、そうなんです。ただ、神仏が実在しないというのは現在の私たちが科学的な教育を受けているから、そう思えるだけで、古代では「紛れもない現実」でした。

だから彼らが「神託があった」と主張すれば、褒美をやらざるを得ない。人間よりも神は優先させなくちゃいけません。だからこう言う話が残ったのでしょう。

もう一つ、個人的な解釈ですが、「地元への利益誘導」「地域への論功行賞」というのがあったんじゃないか?と思います。地元の社ってのは地域の共有物です。みんなが私財を出し合って、社を運営し、社は自治会の集会所だし、祭りの会場だし、神社の神官の個人的な所有物じゃなかったんですね。だからそこに天皇から捧げものが贈られるってのは、その地域への貢献に対する「お礼」だったんじゃないかと思います。

おそらく実際に戦争に参加した人も沢山いたでしょう。しかし彼らに直接に褒賞は出せない。切りがない。そこで、活躍したその地域の人たちの共有物である神社に捧げものをした。また、その捧げものを朝廷から引き出しただろう人物には地元の人たちは感謝し、人望が増し、影響力が強くなったでしょう。そういう意味もあったんじゃないかなと思います。
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