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天武天皇(二十六)墨坂→金綱井→当麻→葦池・勇士の来目と壱岐史韓国
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是日將軍吹負、爲近江所敗、以特率一二騎走之。逮于墨坂遇逢菟軍至、更還屯金綱井而招聚散卒。於是聞近江軍至自大坂道、而將軍引軍如西。到當麻衢、與壹伎史韓国軍、戰葦池側。時、有勇士來目者、拔刀急馳直入軍中。騎士繼踵而進之。則近江軍悉走之。追斬甚多。爰將軍令軍中曰「其發兵之元意、非殺百姓、是爲元凶。故莫妄殺。」於是、韓国、離軍獨逃也。將軍遙見之、令來目以俾射。然不中、而遂走得免焉。將軍更還本營。
現代語訳
この日(即位元年7月4日)。将軍の吹負(フケイ)は近江に敗れて、ただ一人か二人の騎(ウマイクサ)を率いて走って逃げました。墨坂(スミサカ=奈良県宇陀郡榛原町の坂)に到着したら、偶然に菟(ウサギ=置始連菟)の軍と逢いました。さらに引き返して、金綱井(カナヅナノイ=未詳)に駐屯しました。そこで散った卒(イクサ=兵)を招き集めました。近江の軍が、大阪の道から来ると聞いて、将軍は軍を引いて西に行きました。当麻(タギマ=大和国葛下郡当麻郷=現在の奈良県葛城郡当麻村)の衢(チマタ=辻)に到着して、壱岐史韓国(イキノフビトカラクニ)の軍と、葦池(アシイケ)のほとりで戦いました。その時、勇士(タケキヒト)の来目(クメ)という者が居て、刀を抜いて速やかに走り、ただ一人で敵軍の中に入りました。騎士が後から後から続いて進みました。近江の軍はみんな走って逃げました。たくさん追いかけて切り殺しました。将軍が軍中(イクサノナカ)に命令して言いました。
「兵を起こしたそもそもの動機は、百姓を殺そうとしてではない。あくまで元凶があってのこと。みだりに殺さないように!」
韓国は軍を離れて一人で逃走しました。将軍は遥かに見て、来目(クメ)に弓を射らせました。しかし当たらず、走って逃れることができました。将軍はまた本営に引き返しました。
「兵を起こしたそもそもの動機は、百姓を殺そうとしてではない。あくまで元凶があってのこと。みだりに殺さないように!」
韓国は軍を離れて一人で逃走しました。将軍は遥かに見て、来目(クメ)に弓を射らせました。しかし当たらず、走って逃れることができました。将軍はまた本営に引き返しました。
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解説
吹負が敗走したというのは
天武天皇(二十)乃楽山の攻防・古京の盾
のことです。
菟
一方、偶然出会った置始連菟というのは7月9日に「吹負が近江王朝に敗れた」と聞いて、1000騎を分けてもらい倭京へと走らされた、とあります。
天武天皇(二十)乃楽山の攻防・古京の盾
7月4日。将軍の吹負は近江の将軍の大野君果安(オオノノキミハタヤス)と乃楽山で戦いました。果安に敗れて、軍卒(イクサビトドモ=兵士)は全員、走って逃げました。将軍の吹負はなんとか脱出して、その身を助かりました。果安は追いかけて、八口(ヤクチ=地名だが未詳)に到着して、登って京(ミヤコ)を見ると、町ごとに盾が有りました。伏兵があると疑って、引き帰しました。
のことです。
菟
一方、偶然出会った置始連菟というのは7月9日に「吹負が近江王朝に敗れた」と聞いて、1000騎を分けてもらい倭京へと走らされた、とあります。
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