持統天皇(十一)楯節儛を奏じる・大内陵に葬る

MENU
TOP>持統天皇(日本書紀30巻)>持統天皇(十一)楯節儛を奏じる・大内陵に葬る
スポンサードリンク

持統天皇(十一)楯節儛を奏じる・大内陵に葬る

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

原文

九月丙辰朔戊寅、饗耽羅佐平加羅等於筑紫館、賜物各有差。冬十一月乙卯朔戊午、皇太子、率公卿百寮人等與諸蕃賓客、適殯宮而慟哭焉。於是、奉奠、奏楯節儛。諸臣各舉己先祖等所仕狀、遞進誄焉。己未、蝦夷百九十餘人、負荷調賦而誄焉。乙丑、布勢朝臣御主人・大伴宿禰御行、遞進而誄。直廣肆當麻眞人智德、奉誄皇祖等之騰極次第。禮也、古云日嗣也。畢葬于大內陵。十二月乙酉朔丙申、饗蝦夷男女二百一十三人於飛鳥寺西槻下、仍授冠位、賜物各有差。

現代語訳

(即位2年)9月23日。耽羅(タムラ=済州島)の佐平の加羅たちに筑紫館で宴会をしてもてなしました。物を与え、それぞれに品がありました。

冬11月4日。皇太子は公卿(マヘツキミ=臣下)・百寮(ツカサツカサ=役人)の人たち諸藩(トナリノクニグニ)の客人を率いて、殯宮に参り出て慟哭(ミネタテマツル)しました。奠(ミケ)を奉り、楯節儛(タタフシノマイ=盾や鎧を身につけて踊る)を奏じました。諸臣(マヘツキミタチ)はそれぞれの自分の先祖たちが仕える状況を挙げて、互いに進み、誄(シノビコトタテマツル=故人に言葉をかける儀式)をしました。
11月5日。蝦夷190人余りが調賦(ミツキ)を背負って誄しました。
11月11日。布勢朝臣御主人(フセノアソミミヌシ)・大伴宿禰御行(オオトモノスクネミユキ)は互いに進んで誄しました。直広肆の当麻真人智徳(タギマノマヒトチトコ)は皇祖たちの騰極(ヒツギ=日を継ぐ=天皇の系譜)の次第を誄しました。礼に合っています。古くは日嗣(ヒツギ)と言います。終わって、大内陵(オオチノミサザキ)に葬りました。
12月12日。蝦夷の男女213人を、飛鳥寺の西の槻(ツキ)の木の下に宴会をしてもてなしました。冠位を授けて、物を与え、それぞれに品がありました。
スポンサードリンク

解説

騰極と日嗣
ここではどちらも「ヒツギ」とふりがながあって、意味も同じなんですが、表記が違うってことは、やっぱり「元ネタ」が違うってことだと思います。元ネタとなった資料の記述が「騰極と日嗣」と、記述者によって違っていたのではないかな?と。
Pre<<<  >>>Next 
スポンサードリンク

SNSボタン

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

ページ一覧

スポンサードリンク

管理人リンク

編集