持統天皇(十四)草壁皇子尊の死

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持統天皇(十四)草壁皇子尊の死

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原文

三月癸丑朔丙子、大赦天下。唯、常赦所不免、不在赦例。夏四月癸未朔庚寅、以投化新羅人居于下毛野。乙未、皇太子草壁皇子尊薨。壬寅、新羅、遣級飡金道那等奉弔瀛眞人天皇喪、幷上送學問僧明聰・觀智等、別獻金銅阿彌陀像・金銅觀世音菩薩像・大勢至菩薩像各一軀、綵帛錦綾。甲辰、春日王薨。己酉、詔、諸司仕丁、一月放假四日

現代語訳

(即位3年)3月24日。天下に大赦(オオキニツミユルス)しました。ただし常赦(ツネノユルシ)で免除されない罪は、大赦の対象とはしない。

夏4月8日。投化(オノズカラニマウオモブ=帰化)した新羅人を下毛野(シモツケノ)に居住させました。
4月13日。皇太子の草壁皇子尊(クサカベノミコノミコト)が亡くなりました。
4月20日。新羅は級飡(キュウサン=新羅の官位)の金道那(キンドウナ)たちを派遣して、瀛真人天皇(オキノマヒトノスメラミコト=天武天皇)の喪を弔いました。合わせて学問僧の明聡(ミョウソウ)・観智(カンチ)を送迎しました。これとは別に金銅の阿弥陀像(アミダノミカタ)・金銅の観世音菩薩像・大勢至菩薩像の各一軀、綵帛(シミノキヌ=染め布)・錦・綾を献上しました。
4月22日。春日王(カスガノオオキミ)が亡くなりました。諸司(ツカサツカサ=役人)の仕丁(ツカエノヨホロ=従者)に1月に休みを4日与えました。
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解説

唐突な草壁皇子の死
大津皇子の謀反と死の後、このタイミングで草壁皇子が死にました。死因も経緯も書かれておらず、非常に不自然です。ただの皇子の死ならともかく「皇太子」で「尊」という尊称までつけていた人物の死。あまりにあっさりし過ぎです。何かがあったと考えるべきじゃないかと思いますが、詳細は闇の中です。
一ヶ月に4日の休み
当時の一ヶ月は30日なので、週一じゃなくて、10日に一回の休みかな。わざわざ休みを規定するってのは、それだけ過労させているということなんでしょうが、朝廷がそこまで考えていたってだけでも、結構すごいと思う。
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