允恭天皇(十九)崩御と新羅の弔問団の来日

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允恭天皇(十九)崩御と新羅の弔問団の来日

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原文

卌二年春正月乙亥朔戊子、天皇崩、時年若干。於是新羅王、聞天皇既崩而驚愁之、貢上調船八十艘及種々樂人八十、是泊對馬而大哭、到筑紫亦大哭、泊于難波津則皆素服之、悉捧御調且張種々樂器、自難波至于京、或哭泣或儛歌、遂參會於殯宮也。

現代語訳

即位42年春1月14日。天皇は崩御しました。年齢は若干(ソコバク=よく分からないで濁したと思われます)。新羅(シラキ)の王は天皇が崩御したと聞いて、驚き憂い、調(ミツキ=貢物)の船を八十艘、いろんな楽人(ウタマイノヒト=歌・舞の人)を80人を献上しました。彼らは対馬に泊まって慟哭しました。筑紫に到着してまた大きく慟哭しました。難波津(ナニワツ)に泊まって、そこで皆、白い服を着ました。全ての御調(ミツキ=貢物)を捧げて、いろんな楽器(ウタマイノウツワモノ=楽器)を並べて、難波から京(ミヤコ=ここでは大和の都)に到着するまで、あるいは泣き慟哭し、あるいは舞い歌いました。ついに殯宮(モガリノミヤ)に参上し集いました。
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解説

文化の違う新羅
全然文化が違う。全然違うから書いたのでしょう。この後、新羅人はある誤解から逮捕されるのですが、どうも、この天皇の崩御での「歌と舞い」というのが、当時の日本人には奇異に映ったんじゃないかなとも思うのです。
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