スポンサードリンク
允恭天皇(二十)うねめはや、みみはや…で誤解されて
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket原文
冬十一月、新羅弔使等、喪禮既闋而還之。爰新羅人、恆愛京城傍耳成山・畝傍山、則到琴引坂、顧之曰「宇泥咩巴椰、彌々巴椰。」是未習風俗之言語、故訛畝傍山謂宇泥咩、訛耳成山謂瀰々耳。時、倭飼部、從新羅人聞是辭而疑之以爲、新羅人通采女耳、乃返之啓于大泊瀬皇子。皇子則悉禁固新羅使者而推問、時新羅使者啓之曰「無犯采女。唯愛京傍之兩山而言耳。」則知虛言、皆原之。於是新羅人大恨、更減貢上之物色及船數。
冬十月庚午朔己卯、葬天皇於河內長野原陵。
冬十月庚午朔己卯、葬天皇於河內長野原陵。
現代語訳
(即位42年)冬11月。新羅の弔使(トブライノツカイ=弔いの使者)たちは喪礼(ミモノコト)の儀式や音楽を終わりにして帰ることにしました。新羅人は京城のほとりの耳成山(ミミナシヤマ)と畝傍山(ウネビヤマ)を愛でました。帰る途中で琴引坂(コトヒキノサカ)に至って、振り返って言いました。
「うねめはや
みみはや」
風俗(クニヒト=日本語のこと)の言語を習っていませんでした。それで畝傍山を訛って「うねめ」といい、耳成山を「みみ」と言ったのです。その時、倭飼部(ヤマトノウマカイベ)は新羅人に従って、この言葉を聞いて、疑いました。新羅人が采女(ウネメ=氏族が朝廷に仕えさせた娘)と姦通したと思ったのです。それで帰って大泊瀬皇子(オオハツセノミコ=後の雄略天皇)に言いました。皇子はすぐに全ての新羅の使者を縛り上げて捕まえて、問い詰めました。新羅の使者は言いました。
「采女(ウネメ)を犯したことはありません。ただ、京(ミヤコ=倭の都)のほとりの二つの山を愛でて言っただけです」
それで虚言(イツワリゴト)だとわかって、皆を許しました。新羅人はこれを大いに恨んで、代わりに貢物の品や船の数を減らしました。
冬10月10日。允恭天皇は河内の長野原陵(ナガノノハラノミサザキ)に葬られました。
「うねめはや
みみはや」
風俗(クニヒト=日本語のこと)の言語を習っていませんでした。それで畝傍山を訛って「うねめ」といい、耳成山を「みみ」と言ったのです。その時、倭飼部(ヤマトノウマカイベ)は新羅人に従って、この言葉を聞いて、疑いました。新羅人が采女(ウネメ=氏族が朝廷に仕えさせた娘)と姦通したと思ったのです。それで帰って大泊瀬皇子(オオハツセノミコ=後の雄略天皇)に言いました。皇子はすぐに全ての新羅の使者を縛り上げて捕まえて、問い詰めました。新羅の使者は言いました。
「采女(ウネメ)を犯したことはありません。ただ、京(ミヤコ=倭の都)のほとりの二つの山を愛でて言っただけです」
それで虚言(イツワリゴト)だとわかって、皆を許しました。新羅人はこれを大いに恨んで、代わりに貢物の品や船の数を減らしました。
冬10月10日。允恭天皇は河内の長野原陵(ナガノノハラノミサザキ)に葬られました。
スポンサードリンク
解説
新羅と日本の関係
新羅と日本はどうやら「言葉」が違っていたのは衆知のことだったようで、これが誤解となって、新羅と日本の関係は悪化してしまいます。
さて、新羅というと白村江での戦いで日本が敗北したことから「日本は新羅が憎い」とされ、日本書紀・古事記で朝鮮半島を悪く書いているのは、そういう政治的な事情があってのことだ、というのがよく言われる説なのですね。でも、このページのように日本が悪いところはこうして書いてるのですから、「新羅が憎いから、悪く書く」というのは、案外と的外れな見解ではないか?と思っています。
ところで朝鮮半島は非常に「自然」「樹木」が少ない土地で、日本によく「山登り」に来る韓国人が遭難していますが、あの人たちがわざわざ日本の山を登るのは、韓国の山がパっとしないからなんですね。だから古代の朝鮮人も日本に来て「山がきれいだな」と感動してもおかしくないんです。
新羅と日本はどうやら「言葉」が違っていたのは衆知のことだったようで、これが誤解となって、新羅と日本の関係は悪化してしまいます。
さて、新羅というと白村江での戦いで日本が敗北したことから「日本は新羅が憎い」とされ、日本書紀・古事記で朝鮮半島を悪く書いているのは、そういう政治的な事情があってのことだ、というのがよく言われる説なのですね。でも、このページのように日本が悪いところはこうして書いてるのですから、「新羅が憎いから、悪く書く」というのは、案外と的外れな見解ではないか?と思っています。
ところで朝鮮半島は非常に「自然」「樹木」が少ない土地で、日本によく「山登り」に来る韓国人が遭難していますが、あの人たちがわざわざ日本の山を登るのは、韓国の山がパっとしないからなんですね。だから古代の朝鮮人も日本に来て「山がきれいだな」と感動してもおかしくないんです。
スポンサードリンク
SNSボタン
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocketページ一覧
允恭天皇(日本書紀)の表紙へ
- Page16 允恭天皇(十六)淡路嶋の神の祟りと男狹磯
- Page17 允恭天皇(十七)木梨軽皇子と軽大娘皇女の悲恋
- Page18 允恭天皇(十八)親々相姧のために娘皇女は伊予へ
- Page19 允恭天皇(十九)崩御と新羅の弔問団の来日
- Page20 允恭天皇(二十)うねめはや、みみはや…で誤解されて
スポンサードリンク