孝徳天皇(六十四)大使の吉士長丹の遣唐使

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孝徳天皇(六十四)大使の吉士長丹の遣唐使

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現代語訳

(即位9年)白雉4年夏5月12日。大唐(モロコシ)に派遣した大使の小山上(ショウセンジョウ)の吉士長丹(キシノナガニ)・副使(ソイツカイ)の小乙上(ショウオツジョウ)の吉士駒(キシノコマ)…
駒は別名を糸(イト)と言います

学問僧の道厳(ドウゴン)・道通(ドウツウ)・道光(ドウコウ)・恵施(エセ)・覚勝(カクショウ)・弁正(ベンショウ)・恵照(エショウ)・僧忍(ソウニン)・知聡(チソウ)・道昭(ドウショウ)・定恵(ジョウエ)…
定恵は内大臣(ウチノオオオミ=中臣鎌足)の長子です。

安達(アンダチ)…
安達は中臣渠毎連(ナカトミノノコメノムラジ)の子です。

道觀(ドウカン)…
道觀は春日粟田臣百済(カスガノアワタノオミクダラ)の子です。

学生の巨勢臣薬(コセノオミクスリ)…
薬は豊足臣(トヨタリノオミ)の子です。

氷連老人(ヒノムラジオキナ)…
老人は真玉(マタマ)の子です。

ある本によると、学問僧の知弁(チベン)・義徳(ギトク)、学生の坂合部連磐積(サカイベノムラジイワツミ)を加えます。

合わせて121人。一緒に一つの船に乗りました。室原首御田(ムロハラノオビトミタ)を送迎の使者としました。また大使の大山下(ダイセンゲ)の高田首根麻呂(タカタノオビトネマロ)…
別名を八掬脛(ヤツカハギ)と言います。

副使の小乙上(ショウオツジョウ)の掃守連小麻呂(カニモリノムラジオマロ)・学問僧の道福(ドウフク)・義向(ギキョウ)、合わせて120人が、一緒に一つの船に乗りました。土師連八手(ハジノムラジヤツテ)を送る使者としました。

この月、天皇は旻法師の房(ムロ=家)に行き、その疾病を問いました。ついに口から恩命(メグミノミコトノリ)を勅(ミコトノリ)しました。
ある本によると即位5年7月に、僧旻法師(ソウミンホウシ)は安曇寺(アズミデラ)で病気に臥しました。天皇が行き、問いました。そしてその手を取って言いました。
「もし、法師が今日死ねば、朕(ワレ)は従って明日に死のう」
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解説

船一隻に120人を乗せての、遣唐使です。かなり大きな規模です。一隻に120人を乗せていくということは、「航海」はそれなりに安全だったと考えるべきでしょう。まぁ、二隻のうち一隻は遭難しちゃっているんですけどね。それでも、現在の我々から見ると「命がけ」だろうと思いがちですが、それほどでもなかった、と考えるべきでしょう。
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原文

四年夏五月辛亥朔壬戌、發遣大唐大使小山上吉士長丹・副使小乙上吉士駒(駒、更名絲)・學問僧道嚴・道通・道光・惠施・覺勝・辨正・惠照・僧忍・知聰・道昭・定惠(定惠內大臣之長子也)・安達(安達中臣渠毎連之子)・道觀(道觀春日粟田臣百濟之子)・學生巨勢臣藥(藥豊足臣之子)・氷連老人(老人眞玉之子)。(或本、以學問僧知辨・義德、學生坂合部連磐積而増焉)幷一百廿一人倶乘一船、以室原首御田爲送使。又大使大山下高田首根麻呂(更名八掬脛)・副使小乙上掃守連小麻呂・學問僧道福・義向、幷一百廿人倶乘一船、以土師連八手爲送使。是月、天皇幸旻法師房而問其疾、遂口勅恩命。(或本於五年七月云、僧旻法師臥病於阿曇寺。於是天皇幸而問之、仍執其手曰、若法師今日亡者朕從明日亡。)
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