綱柏を捨てて山代から奈良を通り葛城へ

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綱柏を捨てて山代から奈良を通り葛城へ

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読み下し文

ここに大后、大きに恨み怒りて其の御船に載せたる御綱柏は悉く海に投げ棄てき。 故、其の地を號けて御津前と謂う。 即ち宮に入り坐さずして其の御船を引き避りて堀江に泝り河の隨に山代に上り幸しき。 此の時に歌いて曰く、

都藝泥布夜 夜麻志呂賀波袁 迦波能煩理 和賀能煩禮婆 迦波能倍邇 淤斐陀弖流 佐斯夫袁 佐斯夫能紀 斯賀斯多邇 淤斐陀弖流 波毘呂 由都麻都婆岐 斯賀波那能 弖理伊麻斯 芝賀波能 比呂理伊麻須波 淤富岐美呂迦母

即ち山代より迴りて那良の山口に到り坐して歌いて曰く、

都藝泥布夜 夜麻志呂賀波袁 美夜能煩理 和賀能煩禮婆 阿袁邇余志 那良袁須疑 袁陀弖 夜麻登袁須疑 和賀美賀本斯久邇波 迦豆良紀多迦美夜 和藝幣能阿多理

かく歌いて還りて暫く筒木の韓人、名は奴理能美の家に入り坐しき。
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現代語訳

それで大后はこれをとても恨み、怒って、その船に乗せた儀式に使う御綱柏(ミツナガシワ)を全て海に投げ捨てました。それでその土地を名付けて「御津前(ミツノサキ=難波津の崎=現在の大阪市南区)」といいます。すぐに宮(ミヤ=皇居=天皇が居るところ)に入らないで、その船を引き返して、堀江をさかのぼって河に沿って山代(ヤマシロ=山城=京都府南部)へと登って行きました。このとき、歌を歌いました。

つぎねふや 山代(山背)川を 川上り
我が上れば 川の辺に 生ひ立てる さしぶを
さしぶの木 其が下に 生ひ立てる 葉広
五百(斎)箇真椿(ユツマツバキ)
其が花の 照りいまし
其が葉の 広りいますは 大君ろかも

歌の訳(「つぎふねや」は山代の枕詞)山代川(現在の木津川)をさかのぼって行くと、川辺に生えているサシブ(ツツジ科の木のシャシャンボの古名で果実が食べられる)の木が生えている。そのサシブの木の下に生えている葉の広い「ユツマツバキ」。その花が照り、その葉が広い様子は大君のようです。

山代を回って、那良(ナラ=山代国と大和国の間にある平城山のこと)の山の入り口に至って座って歌いました。

つぎねふや 山代川を 宮上り 我が上れば あをによし(青丹によし) 奈良を過ぎ 小楯 倭を過ぎ 我が見が欲しく国は 葛城高宮 我が家のあたり
歌の訳(つぎふねやは山代の枕詞)山代川を上って(あおによしは奈良の枕詞)ならを過ぎて、小楯(オダテ)と倭(ヤマト)を過ぎて、私が見たい国は葛城高宮(カヅラキタカミヤ)の我が家のあたりです。

そう歌って帰って、筒木に住む韓人の奴理能美(ヌリノミ)という人の家に泊まりました。
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解説

大后は難波の港から川を上って山代(京都の南部)へ。そこから今度は奈良と倭を抜けて葛城へと行きました。葛城は石之日売命の故郷だからです。ちなみに石之日売命は葛城の曾都毘古(ソツビコ=日本書紀では葛城襲津彦)の娘です。

だから石之日売は実家である葛城に帰ったと。この葛城襲津彦が朝鮮半島の交渉の専門家だったようで、朝鮮半島の技術者や移民を連れ帰っているのです。ここで石之日売が泊まった韓人もそういった繋がりだったと思われます。
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