韓媛の献上を拒否し、家を焼いて殺す

MENU
TOP>雄略天皇(日本書紀)>雄略天皇(四)韓媛の献上を拒否し、家を焼いて殺す
スポンサードリンク

雄略天皇(四)韓媛の献上を拒否し、家を焼いて殺す

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

原文

大臣、裝束已畢、進軍門跪拜曰「臣雖被戮、莫敢聽命。古人有云匹夫之志難可奪、方屬乎臣。伏願大王、奉獻臣女韓媛與葛城宅七區、請以贖罪。」天皇不許、縱火燔宅。於是、大臣與黑彦皇子眉輪王倶被燔死、時坂合部連贄宿禰、抱皇子屍而見燔死。其舍人等闕名、收取所燒、遂難擇骨、盛之一棺、合葬新漢(木偏に疑う)本南丘。(木偏に疑う)字未詳、蓋是槻乎

現代語訳

大臣は装束(ヨソオイ=着飾る)を終えて、軍門(ミカド=雄略天皇の軍隊の陣)へ進んで、拝礼して言いました。
「わたしめは罪を問われたとしても、命令を聞くことはありません。古の人は言いました。『卑しい人の志ですら奪うことは難しい』……これはまさにわたしめのことです。伏して願います。大王(オオキミ=雄略天皇のこと)よ。わたしめの娘の韓媛(カラヒメ)と葛城の宅(イエ)の七区を献上しますので、死罪は許していただきたいのです」
天皇は許しませんでした。火をつけて宅(イエ)を焼き払いました。大臣と黒彦皇子(クロヒコノミコ)と眉輪王(マヨワノオオキミ)は共に焼き殺されてしまいました。そのとき、坂合部連贄宿禰(サカアイベノムラジニエノスクネ)は皇子の屍体を抱いて焼き殺されました。その舎人(トネリ=皇子の側近)たち……名を失ったので名前は分からない……は、焼けた後に片づけをしたのですが、ついに遺骨を得ることは出来ませんでした。それで、一つの棺に骨を全部入れてしまって、新漢(イマノアヤ=現在の奈良県吉野郡大淀町今木?)の(木偏に疑う)本(ツキモト?)の南の丘です。
(木偏に疑う)は詳細はわかりませんが、遅くら「槻(ツキ)」ではないか?
スポンサードリンク

解説

骨を一つの棺に
「黒彦皇子」と家臣である「円大臣(ツブラノオオオミ)」と「坂合部連贄宿禰(サカアイベノムラジニエノスクネ)」と、今回の暗殺事件の渦中の人物である「眉輪王」の骨が、どれが誰の骨か分からなくって、ゴチャゴチャのまま一つの棺にぶっこんで処理してしまいます。

これはアカン。

儒教では先祖を敬うので、こういう処理は絶対だめですが、遺骨をちゃんと処理する義務を負うのはあくまで「子孫」だけです。雄略天皇には遺骨を丁寧に扱う「義務」がありません。しかし、日本は儒教の影響をうけつつも日本独自の思想を維持しました。それが「怨霊」です。

雄略天皇は「悪い天皇」として描かれます。それが史実かどうかはともかく、悪いのですね。その「悪行」の一つが、この「黒彦皇子の遺体不明」なのですが、これが「悪行」として成立するのには「怨霊」という思想が必要です。

怨霊という考えは、死者に未練というか恨みというか、そういう感情があった場合は死後に祟りがあるよーという考え方です。よって日本人は「殺人」を嫌います。平安時代には死刑と軍隊を廃止したくらいです。

ちなみに日本人は死者を丁寧に祀る必要があると考えています。丁寧に祭れば祟らず、私たちを守る神様になるからです。それが「靖国神社」です。しかし中国や韓国では「死者を祀る」という感覚は薄いです。死者を祀ったとしてもそれは「先祖」だけで、先祖ではない魂を鎮魂する必要はありません。だから靖国神社で日本と中韓は揉めまくるわけです。
Pre<<<  >>>Next 
スポンサードリンク

SNSボタン

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

ページ一覧

スポンサードリンク

管理人リンク

編集