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推古天皇(五十九)寺46箇所、僧816人、尼569人、合わせて1385人
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秋九月甲戌朔丙子、校寺及僧尼、具錄其寺所造之緣・亦僧尼入道之緣及度之年月日也。當是時有寺卌六所・僧八百十六人・尼五百六十九人幷一千三百八十五人。
現代語訳
(即位32年)秋9月3日。寺と僧尼を校(カムガエ=調べて)して、詳細にその寺を作った縁(コトノヨシ)と、僧尼が仏道に入った縁(コトノヨシ)、また出家した年と月日を記録しました。この時、寺46箇所、僧816人、尼569人、合わせて1385人いました。
解説
前のページで僧正などを任じ、僧を管理するようになりました。これって、仏教に関わる人がかなり増えたからでしょうね。僧が増えて、犯罪まで起こすようになって、管理する必要があった。ひっくり返すと、仏教を国家が管理するようになったってわけです。
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- Page58 推古天皇(五十八)観勤僧を僧正に・鞍部徳積を僧都に
- Page59 推古天皇(五十九)寺46箇所、僧816人、尼569人、合わせて1385人
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