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推古天皇(五十六)蘇我馬子は派兵を後悔する・迎船が二艘の理由
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冬十一月、磐金・倉下等至自新羅。時大臣問其狀、對曰「新羅、奉命以驚懼之、則並差專使、因以貢兩国之調。然、見船師至而朝貢使人更還耳。但調猶貢上。」爰大臣曰「悔乎、早遣師矣。」時人曰「是軍事者、境部臣・阿曇連、先多得新羅幣物之故、又勸大臣。是以、未待使旨而早征伐耳。」初磐金等度新羅之日、比及津、莊船一艘迎於海浦。磐金問之曰、是船者何国迎船。對曰、新羅船也。磐金亦曰、曷無任那之迎船。卽時更爲任那加一船。其新羅以迎船二艘、始于是時歟。自春至秋霖雨大水、五穀不登焉。
現代文訳
(即位31年)冬11月。磐金(イワカネ)・倉下(クラジ)などが新羅から到着しました。その時、大臣(オオオミ=蘇我馬子)はその状況を問いました。答えて言いました。
「新羅は命令を受け賜って、驚き畏まりました。それですぐに専使(タウメヅカイ=専用の使者)を差し向けて、両国の調(ミツキ=税)を献上しました。しかし、船師(フナイクサ)が到着したのを見て、朝貢の使者はさらに帰ってしまいました。ただ、調(ミツキ)だけは献上しました」
大臣は言いました。
「悔しいなぁ。
早くに、師(イクサ=軍隊・将軍)を派遣したことは!」
その時代の人は言いました。
「この軍事行動は境部臣(サカイベノオミ)・阿曇連(アズミノムラジ)が先立って、たくさんの新羅からの幣物(マイナイ=贈り物=ここでは賄賂)を得たがために、大臣に軍事行動を勧めたのだ。だから使者の主旨を聞くのを待たずに、早く征伐したのだ」
初めに磐金たちが新羅に渡った日に、津(ツ=港=新羅の港)に至った頃に、壮船(カザリフネ)を一艘で海の浦(ウラ=沖)に迎えに行きました。磐金は問いました。
「この船はどこの国の迎船(ムカエブネ)か?」
答えて言いました。
「新羅の船です」
磐金はまた言いました。
「どうして任那の迎船は無いのか」
その時、また任那のために一船を加えました。新羅が迎船に二艘を用いるのは、この時に始まったか。
春から秋に霖雨(ナガメ)で大量に雨がありました。五穀が実りませんでした。
「新羅は命令を受け賜って、驚き畏まりました。それですぐに専使(タウメヅカイ=専用の使者)を差し向けて、両国の調(ミツキ=税)を献上しました。しかし、船師(フナイクサ)が到着したのを見て、朝貢の使者はさらに帰ってしまいました。ただ、調(ミツキ)だけは献上しました」
大臣は言いました。
「悔しいなぁ。
早くに、師(イクサ=軍隊・将軍)を派遣したことは!」
その時代の人は言いました。
「この軍事行動は境部臣(サカイベノオミ)・阿曇連(アズミノムラジ)が先立って、たくさんの新羅からの幣物(マイナイ=贈り物=ここでは賄賂)を得たがために、大臣に軍事行動を勧めたのだ。だから使者の主旨を聞くのを待たずに、早く征伐したのだ」
初めに磐金たちが新羅に渡った日に、津(ツ=港=新羅の港)に至った頃に、壮船(カザリフネ)を一艘で海の浦(ウラ=沖)に迎えに行きました。磐金は問いました。
「この船はどこの国の迎船(ムカエブネ)か?」
答えて言いました。
「新羅の船です」
磐金はまた言いました。
「どうして任那の迎船は無いのか」
その時、また任那のために一船を加えました。新羅が迎船に二艘を用いるのは、この時に始まったか。
春から秋に霖雨(ナガメ)で大量に雨がありました。五穀が実りませんでした。
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解説
新羅が任那を侵略したので、日本は朝廷内で話し合い、使者を送って、新羅と任那と話し合いで解決しようとしたのですが、なぜか日本は軍隊を派兵。その軍隊を見た新羅はびっくりして逃げ出したわけです。
それで、どうして軍隊を派兵し、和議をぶち壊したのか? それが境部臣・阿曇連が賄賂をもらって、大臣に「派兵」を勧めたからという噂があった、ってわけです。本当でしょうかね。
それで、どうして軍隊を派兵し、和議をぶち壊したのか? それが境部臣・阿曇連が賄賂をもらって、大臣に「派兵」を勧めたからという噂があった、ってわけです。本当でしょうかね。
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